丹波・丹後の妖怪あつめ

京都府北部(丹波・丹後地域)の怪異妖怪伝承を紹介するブログです。

2022年03月

千秋潭の怪

千秋潭の怪 (せんしゅうたんのかい)


昔、西本梅村大河内は「怖い所だ」と噂されていた。
だが噂を信じない三人の木樵が大河内を訪れ「何が怖いのか」と嘲った。
そして彼らが瑠璃渓の千秋潭の畔に辿り着いた時、川上から片方だけの下駄、次いで笏が流れて来た。
三人が動じないでいると、今度は蛇の首が流れて来た。
それを見た一人はその場で即死し、残りの二人は家まで逃げ帰ったが、間もなく死んでしまったという。

『丹波の伝承』「瑠璃渓の千秋潭」より


『園部町の口碑、伝承 おじいさんたちの話』にも同じ話が掲載されていますが、こちらは二番目に流れてきた物は「笏」(貴族が正装時に持つ細長い板)ではなく「惚」(木の葉のくず?)と書かれています。誤記?


伝承地:南丹市園部町大河内・瑠璃渓谷


人身御供の幽霊

人身御供の幽霊 (ひとみごくうのゆうれい)


昔、土師川の井根(井堰)は大雨の度に崩れていた。
村人たちが水神に伺いを立てたところ「処女を人柱にすれば壊れない井根が出来る」というお告げを受けた。
そこで村人たちは、偶然村を訪れていた行商の若い娘に事情を説明した。
娘は懇意の尼に相談した末、人身御供になることを決断し、水中に沈んでいった。
その後、頑丈な井根が完成し、村では祝いの盆祭りが盛大に開かれた。
祭りの日の夜更け、村の若者たちが井根に架かる橋を渡っていると、水中から黒髪を乱した白衣の幽霊が現れた。
幽霊は川面を滑るように歩き、対岸の竹藪に消えていった。
村では「人柱の娘が化けて出た」と噂されるようになり、夜に川へ近づく者はいなくなった。
この噂を聞いた庄屋は娘の供養をしていないことに気づき、彼女と懇意だった尼に頼んで施餓鬼を行った。
するとその後、井根で幽霊が目撃されることはなくなったという。

『福知山の民話と昔ばなし集』「人身御供の幽霊」より


伝承地:福知山市長田・六人部地区(土師川)


怪の木魚

怪の木魚 (あやしのもくぎょ)


氷上郡美和村の白毫寺の東には観音堂がある。
この観音堂でご開帳があった後、どこからともなく木魚を打つ音がするようになった。
音は寺にいれば観音堂の方から聞こえ、観音堂にいれば寺の方から聞こえるという。
毎夜、午後八時半、午前零時、午前四時の三回、各一時間程、木魚の音が鳴り続けるという。

『明治期怪異妖怪記事資料集成』扶桑新聞 明治三十五年五月二十二日「怪の木魚」より


伝承地:兵庫県丹波市市島町白毫寺


明地が森の大蛇

明地が森の大蛇 (あけちがもりのおおへび)


碇高原の中程に「明地が森」という大きな森があった。
昔、この森の近くの村の家が嫁をもらい、まもなく子供が生まれた。
だが家族は嫁が子供に乳を飲ませている姿を見たことがなく、不思議に思っていた。
ある日、家人が仕事から戻ると子供のそばに大きな蛇がいたので、驚いて蛇の目を刺してしまった。
すると大蛇は「私はこの子の母親です。どうかこの子を育てて下さい。この玉をしゃぶらせるだけで育ちます」と言い、玉を一つ置いて明地が森へ入っていった。
その後、明地が森に入ると発狂したり病死したりするようになったため、誰も近づかなくなったという。

『丹後町の民話 -第二集-』「明地が森の大へび(碇高原)」より


伝承地:京丹後市丹後町碇


土瓶が下がる木

土瓶が下がる木 (どびんがさがるき)


浜詰集落の市郎兵衛と呼ばれる屋敷の裏には洞窟があり、人骨や土器、刀剣などが出土したという。
この洞窟の前に古い大榎が生えており、夕方にここを通ると枝から土瓶が下がった。
土瓶が下がるのを見た者が手を伸ばして掴もうとすると、スッと消えてしまったという。
これは洞窟に住んでいた古代人の怨霊の仕業だと考え、榎の下に地蔵を建立したところ、土瓶は下がらなくなった。
やがて榎は伐り倒されたが、地蔵は今も残っているという。


『季刊 民話』第1号 1975年〈冬〉「奥丹後物語 草稿」
『ふるさとのむかしむかし』「どびんがさがる」より


伝承地:京丹後市網野町浜詰


放れ駒

放れ駒 (はなれごま)


享保の大火(1724)で焼失したが、かつて円隆寺の本堂の壁には馬の絵がかけてあった。
ところが、この馬は夜になると絵から抜け出し、近隣の田畑を荒らし回っていた。
村人たちは交代で見張りを立てるも、仮眠を取っている間に作物を食い荒らされるという有様だった。
この馬の姿を見た者はいないが、蹄の音や走り去る馬の影を見た者はいたという。
ある時、一人の村人が円隆寺の壁画の馬に水玉や泥がついていることに気づき、作者である金岡という絵師に事情を話した。
その後、金岡が壁画に網を描き足して馬を繋ぐと、絵から抜け出て田畑を荒らすことはなくなったという。

『舞鶴市史 各説編』「放れ駒の絵(引土)」
『舞鶴の民話 第二集』「放れ駒(引土)」より


絵馬の作者の金岡とは平安時代の絵師「巨勢金岡」のことで、舞鶴市の旧・赤野村には彼の屋敷跡があると伝えられています。(『丹後旧語集』)
また京都市右京区の仁和寺にも、巨勢金岡作の絵馬から馬が抜け出して田を荒らす話がありますが、こちらは「絵馬の仕業だと気づいた人々が馬の目の部分をほじくり出して止めた」という結末になっています。(『古今著聞集』)


円隆寺
円隆寺本堂。
残念ながら絵馬は現存していません。

伝承地:舞鶴市引土・円隆寺


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