丹波・丹後の妖怪あつめ

京都府北部(丹波・丹後地域)の怪異妖怪伝承を紹介するブログです。

2022年07月

河守源助

河守源助 (こうもりげんすけ)


天保の頃、三日市には大名所有の竹藪が由良川に沿って茂っており、この藪が日光を遮って田の米の生長を妨げていた。
だが年貢の取り立ては厳しく、困った村人たちは数名の代表を立てて田辺藩に上訴することにした。
その中に河守源助という男も含まれていた。
そして源助が代官所で窮状を訴え、減税を願い出たところ、役人は刀に手をかけ「源助の言葉は本当か」とすごい剣幕で他の村人たちに真偽を問いただした。
村人たちは役人の迫力に怯え、源助の訴えに同意せず沈黙してしまった。
すると役人は「源助一人の主張だ」と決めつけ、彼だけに死刑を言い渡した。
源助は裏切った村人たちを恨めしそうに睨みながらも、「私が言い出したことです」と開き直った。
そして源助は首をはねられて処刑された。
彼の首は杭に刺されて数日間川辺に晒されていたが、由良川が増水した際に流されてしまった。
それ以来、村人たちがその近くを通ると、川面に源助の恨めしそうな顔が浮かぶようになった。
またその年は凶作で農作物がほぼ取れず、村人たちは源助の祟りだと考え、愛宕山の麓に碑を建てて彼の霊を慰めることにした。
その後、藩から年貢の減税が認められたため、村人たちは源助のおかげだと感謝したという。

『舞鶴の民話 第一集』「河守源助さん(三日市)」より


村人の源助への手の平返しがなかなかにひどい。
ちなみに大名所有の竹藪は耕地整理で伐採されて現在は残っていません。良かったですね。


伝承地:舞鶴市三日市


大入道に化けた地蔵

大入道に化けた地蔵 (おおにゅうどうにばけたじぞう)


杉谷と荒山の間に「一番谷」という峠道がある。
ある夜、矢谷小右ェ門という男が杉谷からの帰り道にこの峠を通っていた。
しばらく進むと、道の中央に身長一丈(約3m)もある一ツ目の真白な大入道が立ちはだかっていた。
小右ェ門は「また狐が悪戯しているな。退け」と言って通り抜けようとしたが、大入道は後ずさりながら左右に動いて通さなかった。
仕方なく大入道を押しのけるようにして、やっとのことで横をすり抜けると、道の先に巨大な狼がうずくまっているのが見えた。
驚いた小右ェ門は無我夢中で杉谷へ逃げ戻った。
翌朝、再び大入道が立っていた所へ戻ってみると、山手側に地蔵があった。
昨夜の大入道はこの地蔵が化けたもので、狼から助けるために自分の注意を惹いてくれていたのだと確信した。
小右ェ門は地蔵に深く感謝し、立派な石槨を寄進したという。

『丹後の伝説 ふるさとのはなし』「一ツ目の大入道になって人助けをしたお地蔵さん」より


伝承地:京丹後市峰山町杉谷~荒山間・一番谷峠


蛇の恩返し

蛇の恩返し (へびのおんがえし)


道で蛇や蛙の死体を見つけたら、穴までは掘らなくていいが、人目につかない所に隠し「ここで成仏してくれ」と言わなければならない。
昔、二人の行商人が峠を歩いていたが、とても喉が渇いて困っていた。
すると女が現れ、二人に「水が飲みたいか」と尋ねた。
一人が喉の渇きを訴えると、女はその商人に水を渡した。
商人は喉を潤すと、もう一人の商人にも水を渡すよう女に頼んだ。
だが女は「私は以前あなたに助けてもらった蛇だ。あなたは私の死体を見えない所へ隠してくれたので恩がある。だがもう一人の商人は「あ、きちゃな(汚い)」と言って唾を吐いて逃げたので恩はない」と言って断った。
もう一人の商人は水をもらえず、行き倒れる程の目に遭ったという。

『みやづの昔話 -北部編-』「蛇の恩返し」より


伝承地:宮津市日ヶ谷


夜泣石

夜泣石 (よなきいし)


世木村の中世木には“夜泣石”という石が転がっている。
江戸時代、園部藩主・小出氏の命で城の庭石を集めていた時、この石は他の所へ運び出されることを悲しみ、夜泣きをした。
運搬する者は気味悪がり、石を世木村に捨てていったという。

『丹波の伝承』「鶯岩と夜泣石」より


伝承地:南丹市日吉町中世木


おおさか谷の大蛇

おおさか谷の大蛇 (おおさかだにのだいじゃ)


園部町竹井から丹波篠山の福住に抜ける山道は「おおさか谷」と呼ばれ、昼でも寂しい所だった。
昔、この山谷に大蛇が棲んでおり、里に下りては人や家畜を食い荒らしていた。
そこで村人たちがおおさか谷の峠の頂上にある滝に不動明王を祀ると、それからは大蛇の姿を見ることはなくなったという。

『園部町の口碑、伝承 おじいさんたちの話』「お不動さん」より


伝承地:南丹市園部町竹井


脚気墓

脚気墓 (かっけばか)


江戸末期、泉州堺の武士が親の仇を捜し、妙高山の西にあるヅエガ谷の篭屋に滞在していた。
武士は名前を変え、猿回しの芸人に変装して仇を捜し回っていたが、その内に脚気を患ってしまった。
死期を悟った武士は篭屋の夫妻に「私が死んだらヅエガ谷に埋葬してほしい。だが脚気のせいで仇を討てないのが無念だ。これからは誰であろうと腰から下の病なら、私の墓に頼めば治してやろう」と言い残して死んだ。
その言葉通り、武士の墓に参れば、腰から下の病気が治るようになったという。
そして昭和四十九年(1972)六月、地元民が墓のそばに生えた大きなシキビに因んで「立木菩薩脚気墓」と刻んだ石碑を建立したという。

『多利郷土誌』「かっけ墓」より


伝承地:丹波市春日町多利(脚気墓の正確な位置は不明)


  • ライブドアブログ