丹波・丹後の妖怪あつめ

京都府北部(丹波・丹後地域)の怪異妖怪伝承を紹介するブログです。

2023年09月

大池の妖怪

大池の妖怪 (おおいけのようかい)


天武天皇の時代(697~700)、上漆原鎌倉大滝の西の山頂に舟形の大池があり、巨木に覆われた暗い森が広がっていた。
その森に妖怪が棲みつき、夜毎里近くに出没しては人々を脅し田畑を荒らしていた。
最早神頼みしか術はなく、神明に加護を祈ったところ「近江国滋賀郡小松村(滋賀県高島市鵜川)の白鬚神社に分祀を乞い、鎌倉の氏神として祀れ」という霊夢を見た。
早速鎌倉に白鬚神社を建立すると、妖怪の出没は止まり、満々と水を湛えていた大池の水も減水した。
村人たちは神明の威光に敬服し、魔除けの神として尊崇したという。

『ふるさと岡田中』「白鬚神社」より


白鬚(髭)神社
上漆原鎌倉地区の白鬚(髭)神社。
集落から少し離れた山の麓に祀られています。
ちなみに白鬚神社は上漆原内に二社あり、もう一社は鎌倉地区の北西の長之室地区に鎮座しています。


伝承地:舞鶴市上漆原・白鬚神社


狐憑き

狐憑き (きつねつき)


安永(1772~1781)の頃、足軽株を貰い俄足軽になった男の妻に狐が憑いた。
加持祈祷をしても効果はなく、弓を引いて脅すと、狐は「俄足軽に何ができる」と嘲った。
だがその時放った矢が偶然妻の頭の櫛に当たって割れ、狐は退散したという。
また天保十五年(1844)、宮津を訪れた怪しげな巡礼者の周りで次々と女性が狐に憑かれたという。

『宮津市史 通史編 下巻(元資料『牧家日記』)』「狐つきと女性」より


近世の宮津では怪現象が多く見られ、そのほとんどは狐が原因だと考えられていました。
狐の鳴き声に不安を覚えた人々が稲荷神社に祈祷を頼むこともあったそうです。


老婆に狐が憑いた話はこちら。


伝承地:宮津市川向付近?


福の神

福の神 (ふくのかみ)


昔、越方の谷口家は、大晦日のもち米すら用意出来ない程貧乏だった。
ある年末、谷口氏は「せめてぼた餅くらいは」と思い、何とかぼた餅を作り神様に供えようとした。
すると杖を突き、かます(藁の袋)を担いだみすぼらしい長髪の老人が家を訪ね、一晩の宿を求めた。
谷口氏は快く泊めたが、翌朝になると老人は消えており、かますだけが残されていた。
不思議に思いかますを検めると、中には大量の金銀が入っていた。
「昨日の老人は福の神に違いない」と考え、この金を元手に谷口家は大いに栄えたという。
以来、谷口家では大晦日になると、古びたかますを床の間に祀り、福の神へ感謝すると共に先祖を偲ぶようになったという。
その後、かますは谷口家の分家に譲られたという。

『園部町の口碑、伝承 おじいさんたちの話』「おおみそかの福の神」より


谷口家には、かますを背負った老人が貧乏な農家を訪れる様子を描いた画軸が家宝として保管されているそうです。(現存しているかは不明)


伝承地:南丹市園部町越方


子安地蔵

子安地蔵 (こやすじぞう)


小脇の子安地蔵は昔、斎宮神社(丹後町宮)に祀られていた。
だがある時、怒った龍神によって暴風雨が起こされ、神社が危なくなった。
子安地蔵は他の神と共に依遅ヶ尾山の尾根伝いに逃げ、小脇の地に辿り着いた。
嵐が静まった後、他の神は再び斎宮神社へ戻ったが、子安地蔵は小脇を安住の地と定めて残ったという。
それ以来、子安地蔵は小脇村の守り本尊として祀られるようになった。

ある年の冬、家が埋まる程の大雪が小脇村を襲った。
その夜のこと、子安地蔵を祀るお堂から赤子の泣き声が聞こえてきた。
村人たちは不思議に思いながらその声を聞いていると、やがて獣が唸るような音と共に大雪崩が起こり、村は押し潰された。
生き残った村人たちはお堂に集まったが、その時、雪の上に赤子の足跡が沢山ついているのを見つけた。
村人たちは子安地蔵が泣き声で雪崩を知らせてくれたのだと感謝し、地蔵を谷向かいの移住先に運んで祀り直したという。

『丹後の伝説 ふるさとのはなし』「子安地蔵」より


小脇村は昭和三十八年(1963)の豪雪をきっかけに廃村になり、子安地蔵は丹後町平の常徳寺に移祀されたそうです。


伝承地:京丹後市丹後町小脇


祟る槍

祟る槍 (たたるやり)


山河の観音堂のそばに、麻呂子親王の鬼退治にお供した勢籏家という家があった。
勢籏家には名槍と刀剣があり、この槍が「祟る」と言われた。
そこで元伊勢神社の神主が槍を借り受け、親王の墓碑を祀るため先祖講(斎講)を開いたという。

『加悦町誌』「麻呂子親王と勢籏家」より


麻呂子親王とは、三上ヶ嶽に巣食う鬼(英胡・軽足・土熊)を退治したとされる人物で、丹波・丹後地域には親王にまつわる伝説が多く残されています。


伝承地:与謝野町与謝


鬼ヶ城の赤鬼と青鬼

鬼ヶ城の赤鬼と青鬼 (おにがじょうのあかおにとあおおに)


昔、鬼ヶ城という山に赤鬼と青鬼が棲んでいた。
だが山からの眺めが悪いということで、鬼たちは向かいにある愛宕山の突き出た部分を取り、鬼ヶ城まで持って来ようと考えた。
早速鬼たちは愛宕山の半分をちぎって運ぼうとしたが、山はあまりにも重く、途中で休憩を挟んだ。
その時、鬼たちは鉄棒を地面に深く突き刺して休憩したので、引き抜いた時に大きな穴が開いてしまった。
休憩の後、鬼たちは再び山を背負って歩き出したが、その重さに耐えきれず、鬼ヶ城まで運ぶことを諦め、石本という所に山を置いて帰って行った。
それが石本地区にある「地光寺山」と呼ばれる小山だという。
また、鬼たちが休憩時に開けた大穴は、後に深い井戸になったと伝えられている。

『福知山の民話と昔ばなし集』「地光寺山と石本」より


地光寺山
上天津の石本地区にある地光寺山は標高80m程の小さな山です。
かつてこの小山の頂上に地光寺という寺があったことから、地光寺山と呼ばれているそうです。
写真の右側奥に見える一際大きな山が鬼ヶ城で、『丹哥府志』によると、酒呑童子の一味の茨木童子が棲んでいた山だと伝えられています。
ちなみに写真には写っていませんが、愛宕山は地光寺山の西側、国道176号線を挟んだ所にあります。


伝承地:福知山市上天津(地光寺山)、牧(愛宕山)、同市大江町南山(鬼ヶ城)


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