丹波・丹後の妖怪あつめ

京都府北部(丹波・丹後地域)の怪異妖怪伝承を紹介するブログです。

2024年03月

千賀一族の亡魂

千賀一族の亡魂 (せんがいちぞくのぼうこん)


昔、大島の顕孝寺の住職が大島城跡に登ったまま行方不明になった。
その後、住職は城の南の断崖に沈む廃船の中で死体となって発見されたが、不思議なことにかすり傷一つついていなかった。
村人たちは天正の頃に滅亡した千賀一族の恨みの亡魂か天狗の仕業に違いないと考え、住職が蒐集していた庭用の石や五輪塔を集め、千賀氏の塚として懇ろに祀った。
だが後任の住職が早逝したことで寺は無住となり、荒れ果てていった。
そして天保の頃、元昉という僧が顕孝寺を訪れ「寺が荒廃したのは亡霊の霊祭を疎かにしたからだ」と考えた。
ある日の夜更け、元昉が村を歩いていると、突然山崩れと共に石の裂ける音が響き、一陣の冷たい怪風が吹き渡った。
元昉は身の毛がよだち、冷や汗が吹き出る程の恐怖に襲われたが、九字護身法を修めて無事を念じると怪風は止んだ。
そして早速霊祭を執り行ったところ、怪しげな音も止んだという。
その後天保六年(1835)、元昉は金毘羅神宮を勧請して亡霊たちを祀り、金毘羅堂を建て大島の守り神としたという。

『双書 四方山雀』第13号「橋北 そのⅢ」「金毘羅権現」より


千賀氏は天正十年(1582)、細川氏によって居城の大島城を攻め落とされ、一族は戦死または離散し滅亡したと伝えられています。
(城主の千賀山城守は落ち延び、後に徳川家康に仕えたとも(『一色軍記』))


伝承地:宮津市大島


オコリ石

オコリ石 (おこりいし)


塩谷に小西行長(*)のものと言われる墓がある。
その墓から少し離れた所に“オコリ石”と呼ばれる、高さ1m、幅50cm程の碑のような石がある。
その石に登ったり腰かけたりすると、発熱や頭痛、腹痛を起こすと言って、人々は敬遠している。

『和知町 石の声風の音』「塩谷のオコリ石」より


オコリ石の「オコリ」とは「瘧(熱病)」のこと?

(*)安土桃山時代のキリシタン大名。関ヶ原の戦いに西軍として参戦し敗北、京の六条河原で斬首される。墓は子孫が建てたものか。


伝承地:京丹波町塩谷


浅茂川湖の弁財天

浅茂川湖の弁財天
(あさもがわこのべんざいてん)


網野の広瀬一族は中世から栄えた豪族で、吉岡姓を名乗った吉右衛門という当主の時代に最盛を極めた。
吉右衛門は廻船問屋を営み、また大地主でもあったため、土地改良や新田作りなどに注力していた。
そんなある夜、浅茂川湖に祀られている弁財天が吉右衛門の夢枕に立ち、相撲勝負を挑んできた。
弁財天は「もし私が負けたら浅茂川湖を全部埋め立てても構わない。ただしお前が負けたら今後湖の埋め立てや新田作りは禁止する。そして私のために大鳥居を寄進しろ」と提案した。
そして両者は相撲を取り、弁財天が勝利した。
負けた吉右衛門は約束通り、弁財天の社のある浅茂川湖中に大きな鳥居を建立した。
ところが不思議なことに、落成祝いの翌日、大鳥居は一夜の内に湖中に埋没してしまった。
その後、台風によって吉右衛門の船が乗員・積荷ごと遭難し、多額の補償金を支払うことになった。
この出来事をきっかけに、広瀬(吉岡)一族は衰退していったという。

『網野町誌 下巻』「網野の「広瀬」のこと」より


浅茂川湖跡の碑
浅茂川湖跡の碑。
昔、浅茂川一帯には浅茂川湖という非常に大きな湖が広がっていました。
ですが湖は福田川から流れ込む土砂で徐々に狭まっていき、明治初年頃には半分程の大きさになっていたそうです。
そして昭和四十年(1965)の土地改良事業によって、浅茂川湖は完全に消滅しました。(『網野町誌 上巻』『現地案内板』)


弁財天の祠
ちなみに弁財天(厳島神社)は浅茂川地区南西の小山の中にひっそりと祀られています。


伝承地:京丹後市網野町浅茂川

茶屋の美女

茶屋の美女 (ちゃやのびじょ)


ある夜、三坂の養蚕教師の男が猫ヶ鼻という所を通ると、見たことのない茶屋があった。
そこに美女が後ろ向きに腰かけていたが、暗闇にも拘わらず着物の柄がはっきりと見えた。
男は狐だと思い「化かされるもんか」と走って逃げたという。

『おおみやの民話』「牛糞ぼた餅」より


見知らぬ茶屋に入って騙されるお話。
茶店の女(京丹後市)


伝承地:京丹後市大宮町周枳


蛇ヶ池の大蛇

蛇ヶ池の大蛇 (へびがいけのだいじゃ)


昔、岡安の北の峠に蛇ヶ池という池があり、そこに大蛇が棲んでいた。
人々はこの池に近づくと影を飲まれると恐れ、新しい峠道を作って通行を避けていた。
その頃、泉源寺村の豪族の家に美しい娘がいた。
だが毎晩若い男がその娘の元に忍び通っていたので、心配した両親は長い糸に針を通し、男の袴の裾に縫いつけておいた。
すると翌朝、糸は娘の部屋の戸に空いた節穴から外へ抜け、蛇ヶ池の中へ消えていた。
若い男は蛇ヶ池の大蛇であることを知り、両親は村人を集めて討伐に向かった。
大蛇は池を追い立てられ中山まで逃げたが、追手の弓の名人によって遂に討ち取られた。
大蛇は逃げる途中、六人の村人を呑み殺したので(気を吹きかけて殺したとも)、後にお堂を建て六地蔵として祀ったという。
この大蛇を射止めた場所は「蛇死(じゃじ)」、蛇ヶ池があった場所は「池ヶ首」と呼ばれている。

『朝来村史』「池ヶ首の伝説」
『舞鶴市史 各説編』「池ヶ首(岡安)」より


池ヶ首付近
蛇ヶ池跡地(池ヶ首)。
蛇ヶ池は岡安の青葉山ろく公園の北側、登尾方面へ向かう峠の辺りにあったそうですが、現在は埋め立てられいて往事の面影はありません。
『朝来村史』には「蛇ヶ池を埋めた時、粗朶(木の枝を束ねたもの)を約千二百把投げ入れ、その上に土砂を置くことが出来た」とあるので、相当深い池だったことが窺えます。


伝承地:舞鶴市岡安


大杉さんの天狗

大杉さんの天狗 (おおすぎさんのてんぐ)


森本の大杉さん(大杉神社)には天狗がいると言われていた。
ある時、上三重の老人が大門の大川神社へ行ったまま帰って来なかった。
家人が捜しに行ったが、神社の木からバサーンと音がしたので驚いて逃げ帰った。
翌朝に老人は見つかり、話を聞くと「天狗に連れられて文殊(宮津の智恩寺)へ行き、知恵の餅を食べた」と説明した。
そして気づくと、大川神社の三宝さんというお宮で蓑を着て寝ていたという。
老人は「天狗は、また会いたいなら大杉さんで手を叩けば出て来よう。ただ臭くて汚いものは嫌いなので肥持ちは絶対にするな、と言っていた」と語った。
その老人の履いていた草鞋が、長い間大川神社の松にぶら下がっていたという。

『おおみやの民話』「天狗にさらわれた話」より



大杉神社
大宮町森本の大杉神社。
鳥居などはなく、道端に小さな社がポツンと建っているだけのシンプルな神社です。
かつて神社の辺りは森だったそうですが、今は拓かれてすぐ近くに高速道路が走っています。
試しに社の前で手を叩いてみましたが特に何も起こりませんでした。
ちなみにこの社には天児屋命(あめのこやのみこと)と他七神(名称不明)が祀られているそうです。(『大宮町誌』)
八柱の神の社にしてには少々手狭な気が……。


伝承地:京丹後市大宮町三重、同町森本


  • ライブドアブログ