丹波・丹後の妖怪あつめ

京都府北部(丹波・丹後地域)の怪異妖怪伝承を紹介するブログです。

2024年04月

みこし岩の大鯰

みこし岩の大鯰 (みこしいわのおおなまず)


佐々江の明日ヶ谷の神社から五丁(約545m)程の所に「みこし岩」という岩がある。
昔、明日ヶ谷の神社の祭が行われた時、神輿をこの岩の上で休ませた。
ところが岩の下に棲む大鯰が神輿が重いと怒り、大暴れした。
すると暴風雨が起こり、神輿は流されてしまったが、川下の田原村で拾われた。
そのため、田原の多治神社には神輿が二基あるという。

『ふるさと口丹波風土記』「みこし岩(船井日吉町中佐々江)」より


伝承地:南丹市日吉町佐々江


子を道連れにした幽霊

子を道連れにした幽霊
(こをみちづれにしたゆうれい)


江戸時代、山家藩に道家要蔵という豪胆な侍がいた。
ある日、要蔵は主君の宴に招かれた後、他の侍たちと夜道を帰っていた。
その夜は新月だったが、いつの間にか満月が浮かんでおり、侍たちは不気味だと騒ぎ出した。
そこで要蔵が「月殿、何を血迷ったか。本日のお伴は豪に聞こえた道家要蔵なるぞ」と吼えると、満月はヒョウとかき消え、再び闇夜に戻った。
そして要蔵は侍たちと別れた後、酔い覚ましに和知川の河原へ下りると、対岸から白い人影が川面を滑るように近づいてきた。
それは二十二、三歳の女の幽霊で、足がなく、長い髪を風に揺らしながら宙に浮いていた。
要蔵が「おい幽霊。わしは道家要蔵と申す者。何か用か」と声をかけると、幽霊は頷いて手招きし、村里の方へ向かった。
興味半分でついていくと、やがて幽霊はある家の前で止まり、軒先の鴨居に貼られた神社札を剥がしてほしいと頼んだ。
要蔵が札を剥がすと、何かが脇を通り抜け、同時に心地良い香りがして、気づいた時には札も幽霊も消えていた。
翌朝、要蔵の屋敷の前に透き通るような色白の女が現れ、家人に緞子の包みを渡した。
包みの中には、表に金の昇り龍、裏に銀の下がり龍が細工された小刀が包まれていた。
後に要蔵は、女幽霊と出会ったあの夜、札を剥がした家の赤子が死んだという話を聞いた。
赤子は生まれた時に母を失い、それ以来ずっと泣き続けていたが、死に顔はとても穏やかなものだったという。
先立った母が子を思うあまり、あの世への道連れにしたのだという。

『広報あやべ』1987年7月号「幽霊の母心」より


余談ですが、本文に出てくる道家要蔵は非常に力持ちの人物だったそうで、それを表すエピソードが伝えられています。

江戸時代、山家藩に「獅噛火鉢」という宣徳の丸火鉢があった。
火鉢は江戸屋敷に一つ、山家藩に一つあり、どちらも数人がかりでなければ動かせない程の重さだった。
ある時、この火鉢が江戸幕府の知るところとなり、「公儀に差し出せ」との命令が下った。
そして台覧の日、山家藩藩士の道家要蔵は家臣たちに火鉢を運ばせ、将軍の前に現れた。
すると要蔵は「谷の獅噛火鉢、御覧じませ」と言うなり、火鉢を片手で軽々と持ち上げ、右掌に乗せたまま居並ぶ大名の前を通り過ぎ、籠に乗り込んで藩邸に帰って行った。
それを見た将軍たちは要蔵の膂力と豪胆さに驚き、翌日、殿中の廊下に「谷の小出羽(山家藩主)にすぎたるものは 獅噛火鉢か道家要蔵」と書かれた落首が貼られたという。(『山家史誌』)

後に道家要蔵は山家藩の家老職に就きますが、四十二歳で亡くなったそうです。


伝承地:綾部市戸奈瀬町?


蛇石さん

蛇石さん (へびいしさん)


北田井の里に雨乞いを叶えてくれる“蛇石さん”という石があった。
ある年の夏、丹波地方はひどい旱魃に見舞われたが、北田井だけは蛇石さんのおかげで水に困らなかった。
それを知った山東の里人たちは夜の内に北田井から蛇石さんを盗み出し、天王坂まで逃げてきた。
するとその時、北田井の安全山の辺りで雷が光り、大雨が降り出した。
山東の里人たちは「蛇石さんがお怒りだ」と言って、蛇石さんをその場に放り出して逃げ帰った。
蛇石さんはその後も度々盗まれたので、石の器に入れて蓋をし、周囲を玉垣で囲って担ぎ出せないようにしたという。

『郷土の民話(丹有編)』「蛇石さん(氷上町)」より



蛇石さん
蛇石さんは氷上町賀茂の賀茂神社境内に祀られています。


何故か離れた位置に
本殿や他の境内社から離れた位置にポツンと祀られています。何故。


薄らと蛇石の文字が読める
社の名前は消えかかっていますが、薄ら「蛇石」という文字が読み取れます。
社は閉じられていたので蛇石さんを拝むことは出来ませんでした。
名前から考えるに蛇のような形をした石なのでしょうか。それとも蛇の形が浮き出た石?


伝承地:丹波市氷上町賀茂


龍の彫物

龍の彫物 (りゅうのほりもの)


昔、ある村の神社の本殿を再建することになり、神前に掲げる龍の彫物を彫刻師に依頼した。
完成した龍の彫物はあまり良い出来ではなかったが、村人たちはへつらって「立派な彫物だ」と褒めそやし、彫刻師も得意顔だった。
その時、みすぼらしい身なりの旅人が通りかかり、龍の彫物を見て「フフン」と含み笑いをした。
彫刻師が「私の作品の何がおかしい。彫れるものならお前が彫ってみろ」と怒ると、旅人は「あ、そうかそうか」と言い、荷物袋からノミを取り出して彫物に手を加えた。
するとでくのぼうのようだった龍は、今にも動き出しそうな程立派なものに生まれ変わった。
そして彫物が神前に上げられる日の朝、彫刻師が大工小屋に行くと、龍の彫物はべっとりと濡れ、川べりの雑草が貼りついていた。
村人たちは「龍が水を飲みに行ったんだ」と大騒ぎし、彫物を社前に釘で打ちつけて動けないようにした。
龍の彫物を手直しした旅人は、諸国を旅し、周枳の大宮賣神社に参拝する途中の左甚五郎だったという。

『周枳郷土誌』「龍の彫物」より


この甚五郎性格悪い。

その他の龍の彫刻が抜け出る話。


伝承地:京丹後市大宮町周枳


袖掛松

袖掛松 (そでかけまつ)


女布の布森神社の南に“袖掛松”という松がある。
この松の近くで転んだ時は衣服の袖を分離して枝に掛けなければ、神罰によって三年の内に必ず大病を患うという。
既に松は枯死しているが、代わりに榎の大木が袖掛松の名を継いでいるという。

『続 熊野郡伝説史』「袖掛松の伝説(下佐濃村)」より


その他の「転んだら着物の袖を供える」タイプの伝承。京丹波町ばかり。


伝承地:京丹後市久美浜町女布(二代目の榎の場所は不明。現存していない?)

鐘撞山の蛇

鐘撞山の蛇 (かねつきやまのへび)


昔、園部に仙之助という眉目秀麗の若者が年老いた母と二人で暮らしていた。
ある夜、仙之助の家に若い娘が訪れ、一夜の宿を求めた。
二人は天涯孤独だという彼女を家に住まわせ、やがて仙之助と娘は夫婦になった。
その後母は病死したが、産まれた子供と親子三人で仲睦まじく過ごしていた。
だがある日、仙之助が仕事から帰ってくると、その日に限って妻が迎えに出て来なかった。
不思議に思い、障子の隙間から部屋を覗き込んだ瞬間、仙之助は悲鳴を上げて気絶した。
やがて気がつくと、そばに妻が立っていた。
「私は山に棲む雌蛇です。あなたの美貌と男らしさに惚れ、妻になりたいと思い人間に化けていましたが、不覚にも正体を見破られてしまいました。正体を知られてはどうしようもありませんので、私は山へ戻ります。ですが棲み処の岩窟の入口が村人によって壊されようとしています。もし壊されれば穴の中で昼夜の区別が出来なくなってしまいますので、どうか時刻がわかるよう朝と晩に鐘を撞いて下さい」
妻は泣きながら語り終えると、次の瞬間、悲痛な叫び声と共に姿を消した。
それから数か月後、蛇の棲む岩窟は取り壊された。
するとその頃から毎日朝夕二回、子供を背負った男が山へ鐘を撞きに行く姿が見られるようになった。
しかし、その鐘の音もいつしか鳴らなくなった。
そして園部の人々はいつの頃からか、その山を「鐘撞山」と呼ぶようになったという。

『丹波の伝承』「鐘撞山の蛇性の淫」
『ふるさと口丹波風土記』「鐘撞山の蛇」より


人間に惚れた蛇が女に化けて嫁に嫁ぐ、いわゆる「蛇女房」タイプの異類婚姻譚です。
何故か参考書籍には仙之助が気絶した理由が書かれていませんが、おそらく蛇体となった妻の姿を見てビックリしたからだと思います。



南陽寺
美園町の南陽寺。
蛇が棲んでいた鐘撞山は寺の裏側にそびえています。


鐘撞堂
南陽寺境内の鐘撞堂。
かつては鐘撞山の頂上にあったと言われ、菅原道真に仕えた園部の代官・武部源蔵が時を計る方法を知らない村人のために鐘を鳴らしたという伝説もあります。


伝承地:南丹市園部町美園町


  • ライブドアブログ