丹波・丹後の妖怪あつめ

京都府北部(丹波・丹後地域)の怪異妖怪伝承を紹介するブログです。

2024年09月

剃刀狐

剃刀狐 (かみそりぎつね)


猪崎と川北の境に喜録寺という所があり、昔は山の上に七堂伽藍の立派な寺が建っていた。
だが、喜録寺は山と断崖に挟まれた細い道で、夜になると追剥ぎや人を化かす狐が出る危険な所だった。
しかもその狐は人を騙して髪の毛を剃ると言われ、実際に坊主頭にされた者もいたという。

ある時、猪崎村の男が「俺は絶対坊主頭にされない」と息巻き、腰に刀をさして喜録寺へ向かった。
やがて喜録寺の難所にさしかかると、対面から侍がお供を連れて歩いてきた。
男は道の端に避けたが、すれ違う時に刀のこじりを当ててしまい、怒り狂った侍に斬り捨てられそうになった。
そこへ喜録寺の和尚が通りかかり、「この男を弟子にするので、拙僧の顔に免じて無礼を許してほしい」と申し出た。
侍が承諾すると、男は弟子になる証拠として、その場で和尚に髪の毛を剃られ、坊主頭にされた。
そこへ心配した村の若者たちが駆けつけてきたが、いつの間にか侍も和尚も忽然と姿を消しており、坊主頭の男だけが残されていた。
男は狐に騙され、まんまと坊主頭にされてしまったという。

『福知山の民話と昔ばなし集』「剃刀狐」より


『舞鶴の民話』や『京都 丹波・丹後の伝説』にも喜録寺の剃刀狐の話がありますが、こちらは侍と和尚が男を騙して坊主頭にした後、狐の姿に戻って逃げていく、という少し違ったオチになっています。


喜録寺の道
猪崎と川北の境の道。
右手の山の上に喜録寺があったそうです。
山と川(断崖)に挟まれた狭い道で、昼でも薄暗く、見通しもあまり良くありません。
その割に交通量が多めなので、ある意味今でも危険な所かも。


伝承地:福知山市猪崎、川北


小原山の大蛇

小原山の大蛇 (おばらやまのだいじゃ)


昔、四人の娘が小原山(*)へ栗を取りに行った。
その中におてんばな娘がおり、その娘は入口にある氏神のお神酒をがっぷがっぷと飲んでから山へ入った。
そして、おてんば娘は沢山の栗が成っている木を見つけ、『独り占めしてやろう』と思い、他の娘に別々に分かれて作業することを提案した。
四人は分かれて栗を拾い、やがて日が暮れたので、切り上げて帰ろうとした。
だが、おてんば娘を呼んでも返事がなく、全員で辺りを捜すと、娘は栗の木から落ちて気絶していた。
気絶した娘は家に運ばれたが、一向に目を覚まさなかった。
二日後、娘はようやく目を覚まし、「栗の木に登り、枝に座って上の栗を取ろうとしたら、大蛇が赤い口を開けて私を狙っていた。それに驚いて木から落ちたんだ」と、気絶した経緯を説明した。
その娘は大蛇に息を吹きかけられたため、一生髪の毛が生えなくなってしまったという。

『おおみやの民話』「大蛇に息を吹きかけられたら」より


(*)京丹後市弥栄町にある山。標高約372m。


伝承地:京丹後市弥栄町吉沢


狐のおばけ

狐のおばけ (きつねのおばけ)


筒川の菅野集落の入口に不動明王が祀られており、その左に大きな岩山がある。
昔、夜十二時から一時頃になると、その岩山に何十個もの提灯がずらりと一列に並ぶことが何度もあった。
その提灯は“狐のおばけ”だったという。

『宮津の民話 第二集』「タヌキとキツネの世の中」より


伝承地:伊根町菅野


石田のとねんが婆

石田のとねんが婆 (いしだのとねんがばば)


昔、ある六部(巡礼僧)が生野内にある竹倉部の森の祠で眠っていた。
すると、狼の鳴き声が聞こえてきたので、六部は慌てて近くの榎の木に登ったが、無数の狼に囲まれてしまった。
やがて狼たちは、一頭の上に別の狼が乗り、その上にまた別の狼が乗るという方法で、六部がいる高さまで上がってきた。
だがあと一頭分届かず、リーダー格の狼が「郷の石田のとねんが婆を呼んでこい」と命じた。
しばらくすると一頭の狼が現れ、一番上の狼の背に飛び乗り、六部に噛みつこうとした。
その瞬間、六部が短刀で狼の肩を斬りつけると、その拍子に重なっていた狼たちはバタバタと崩れ落ち、次々に逃げ散っていった。
翌朝、六部は石田村を訪れ、ある家の老婆が昨夜、何者かに斬られて寝込んでいるという話を聞いた。
その家へ行くと、老婆は唸り声を上げ、ものすごい形相で床に伏せていた。
そこで六部が数珠を手に呪文を唱え、悪霊退散を祈ったところ、老婆の顔はみるみる獣のものへと変わっていった。
老婆は目を怒らせ、口から火を吹いて今にも飛びかからんと身構えたので、六部は数珠を投げつけた。
すると、白雲が舞い上がり、老婆はそれに乗って北西の空へ飛び去った。
家の主人は「私たちはこの村ヘ移住してきたのだが、生活は苦しく、妻に先立たれて苦労していた。そんな時、あの老婆がやって来た。老婆はよく働き、手製の膏薬を売り歩いてくれたので生活は楽になった。だが昨夜、老婆は誰かに呼び出された後、血塗れになって帰ってきた。そこでその膏薬を塗って看病していたのだ」と説明した。
その後、六部は家の主人に請われ、生野内の無住の寺に移り住んだという。

『丹後の民話 第二集 ふるさとのむかしばなし』「石田のとねんが婆の話」より


いわゆる「千疋狼」タイプのお話ですが、老婆に化けた狼は退治されず無事に逃げ果せます。
『丹後の昔話』にも同じ話があり、とねんが婆が逃げた「北西」とは今の兵庫県豊岡市奈佐地区のことで、婆はそこで再び「奈佐の膏薬」という狼の膏薬を作って売っていたのではないかと考察されています。
ちなみに、とねんが婆の膏薬は狼の糞を原料に作られたものなんだとか。

その他の千疋狼。


伝承地:京丹後市網野町郷


六部の祟り

六部の祟り (ろくぶのたたり)


昔、木津の松ヶ崎という所に六部(巡礼僧)が住んでいた。
六部は伊予国の武士だったが、ある時、原因不明の病を患い、占い師に占ってもらったところ「五つ辻のある土地に住みなさい」と告げられた。
そして武士は六部となって各地を渡り歩き、遂に木津の松ヶ崎で五つ辻を見つけ、家族と共に移住したという。
同じ頃、村に松本新助という強欲で乱暴な長者がいた。
ある時、新助は六部が金を貯めこんでいることを知り、平五郎という村人を使って財産を奪う計画を立てた。
平五郎は村一番の権力者の新助に逆らうことが出来ず、渋々企てに協力した。
ある日、平五郎は六部の家を訪ね、所持している刀などを見せてほしいと頼み、六部が席を外した隙に刀の目釘を外しておいた。
その数日後、平五郎は六部と新助を自宅に招くと、六部に強引に酒を勧め、酔い潰れたところを新助が刀で斬りつけた。
だが六部はその一撃をかわし、咄嗟に自分の刀を抜いて応戦したが、平五郎によって目釘を抜かれていたため、刀は使い物にならなかった。
六分はやむなく外へ逃げ出したが、足を踏み外して転倒し、追ってきた新助に肩を斬り落とされた。
六部は「何の怨みがあって斬るのか、その理由を言え。私は命が欲しい為に、遥々この地に来て療養しているのだ。ここで死ぬのは残念である。きっと悪霊となって、貴様の家を代々祟ってやる」と言って息絶えた。
そして新助は六部の死体を始末すると、更にその家族も殺し、財産を奪って引き揚げた。
だがその後、六部が殺された卯年になると、松本家に幽霊が出るという噂が立ち、家族や使用人が変死するなど、良くないことが続いた。
流石の新助も祟りを恐れ、屋敷内に祠を建てて六部一家七人の霊を祀り、毎朝欠かさず赤飯を炊いて供えたという。
その祠は「七社の明神」と呼ばれている。

『ふるさとのむかし 伝説と史話』「松ヶ崎の六部さん」より


ちなみに、六部が肩を斬り落とされた所は「カタナシ」と呼ばれていたそうです。物騒な地名。


伝承地:京丹後市網野町木津


貞操桜

貞操桜 (みさおざくら)


昔、桑田郡の小林の里に大工が住んでいた。
大工は阿長(*1)という妻と二人の幼い娘と暮らしていたが、ある年(*2)、江戸で大火事が起こり、仕事を求めて東へ向かった。
だがその後、大工は江戸で別の妻を娶り、音信不通となった。
それでも阿長は貞操を守り、娘たちを女手一つで育てながら夫の帰りを待ち続けた。
阿長は夫が大切にしていた桜の木を形見と思い、苦しい生活の中でも毎日世話を怠らなかった。
そして二十年後、無事二人の娘を嫁に送り出し、阿長はこの世を去った。
すると不思議なことに、世話をしていた桜も、阿長の後を追うように枯れてしまった。
人々は「情のない草木でも人の信(まこと)は通じるものだ」と感激し、枯れた桜を“貞操桜”と名づけ讃えたという。

『奇談雑史』巻十「貞操桜の事」より


(*1)書籍によって「てふ(ちょう)」「阿長」と妻の名前に違いが見られたので、今回は「阿長」に統一しました。
(*2)小林天満宮の案内板によると、火事は享保五年(1710)に起こったそうです。


貞操桜(操桜とも)の話は、本文で参考にした『奇談雑史』の他、『新編 桑下漫録』や『京都 丹波・丹後の伝説』などにも見られます。
ちなみに『新編 桑下漫録』には、「江戸に行った阿長の夫が死ぬと同時に桜が枯れた」と書かれており、書籍によって内容に微妙な違いがあったりします。


二代目貞操桜
千代川町・小林天満宮の鳥居のそばには、二代目の貞操桜が植えられています。
(右側の桜)


新旧阿長の碑
神社の奥には妻・阿長の碑が建てられています。
半ば草に覆われていてわかりづらいですが、左にも「操桜…(以下読めず)」と刻まれた石碑が建っています。旧阿長の碑?


伝承地:亀岡市千代川町小林・小林天満宮


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