藤の森 (ふじのもり)
昔、市島町矢代の国道175号線沿いに“藤の森”という蔦を絡ませた藤の茂みがあった。
過去にはこの藤を切ろうとした人もいたが、その度に怪我をしたり急病になったり火事に遭ったり、果ては一家三人が続けて死亡するなどの不幸に見舞われたので、誰も近づかなかった。
これは天正七年(1579)、明智光秀の侵攻によって黒井城(赤井氏居城)が落城した時、明智方の手引きをした村人一家三人が赤井軍の残党にこの地で惨殺されたためだと言われている。
また一説には、赤井軍の落武者七人がこの地で生き埋めにされ、その内の一人が持っていた法華経の経文の心が、死者の恨みと共に藤に乗り移ったとも言われている。
そのため昭和三十四年(1959)、大乗寺の伊藤妙降という尼僧が藤の供養を始めたという。
一方、昭和五十九年(1984)、広島県呉市の井上夫妻が大日如来のお告げを受け、この地に移住した。
そして役場の許可を得て藤の茂みを切り払い、祠を建て「藤乃院」と刻んだ黒御影石を祀ると、それから祟りは起こらなくなったという。
『兵庫の怪談』「藤の森」より
井上夫妻は「藤の森を放置していては落武者の霊も浮かばれないだろうから、退職金をつぎ込んで整備した」と語っていたそうです。すごい信心。
ちなみに本文では「赤井軍の落武者七人がこの地で生き埋めにされた」とありますが、氷上郡の郷土本『多利郷土誌』ではちょっと違った話が語られています。
戦国時代、黒井城の麓に「橋爪」と名乗る金造師の一団がいて、ふじ乃という老婆をリーダーに据え、採鉱で生計を立てていました。
ですがある時、ふじ乃は明智方のスパイに黒井城の秘密の水源地を教えてしまい、城は水の手を止められて落城しました。
赤井軍の残党は落城の原因がふじ乃であることを知り、橋爪の一団を皆殺しにした後、ふじ乃を含む家族七人を生き埋めにしました。
ふじ乃らが生き埋めにされた所が市島町矢代の国道175号線沿いの「藤の森」(または「藤塚」)で、そこを触れば祟りがあると言って長い間恐れられていたそうです。
この辺りに藤の茂みがあり、昔は「藤の森の写真を撮れば亡霊たちの恨めしげな顔が写り込む」なんて噂されていたそうです。
祠の前には「藤乃院」と刻まれた小さな石柱が建てられています。
見た感じ黒御影石ではなく普通の御影石っぽいですね。作り替えられたのかな。
伝承地:丹波市市島町矢代


