丹波・丹後の妖怪あつめ

京都府北部(丹波・丹後地域)の怪異妖怪伝承を紹介するブログです。

2025年03月

床浦の谷の主

床浦の谷の主 (とくらのたにのぬし)


ある年の夏、温江村の源助という百姓が、大江山の床浦の谷で草刈りをしていた。
源助が刈り取った草を置き場へ運ぶと、そこに小さな蛇がとぐろを巻いて座っていた。
二把、三把と草を運ぶにつれて蛇はどんどん大きくなっていき、やがて大蛇となって源助を睨みつけた。
源助は蛇にからかわれていると思い、「わしに喧嘩をしかけるのか。それなら明日の昼過ぎにここで勝負しよう」と叫ぶと、大蛇は草むらに姿を消した。
翌日の昼、源助は先を尖らせた榁(むろ)の木を手に、対決の場所で待っていた。
すると、ゴーという音を立てて風が吹いたかと思うと、草むらから昨日の大蛇が襲いかかってきた。
大蛇は源助を呑み込もうと大口を開けて何度も飛びかかり、一方、源助は大蛇の攻撃を避けながら榁の木で所構わず殴りつけた。
両者の攻防は数時間に及び、やがて源助は力尽きて気絶してしまった。
再び源助が目覚めた時、既に辺りは暗くなっており、横には血塗れの大蛇が倒れていた。
源助は自分が勝利したことを確信すると、大蛇を担いで村まで戻り、その死体を道端の稲架にかけた。
八段ある稲架の上から二つ折りにしてかけたが、大蛇の頭と尾は長く、地面に着いてしまった。
稲架にかけられた大蛇の死体を見た村人たちは大騒ぎし、村は源助の話題で持ちきりになった。
ところが、その夜から源助は高熱にうなされ、何日も寝込んで生死の境をさまよった。
そして四日目の夜、源助の枕元に神主のような白装束を着た老人が立ち、「わしは床浦の谷の主じゃ。お前との勝負に負けたのは仕方がないが、わしの死体を稲架にかけて見世物にしたのは残念じゃ」と言った。
源助が「あなた様を床浦明神として床浦の谷にお祀りしますので許して下さい」と平伏して謝罪すると、老人は消え、同時に熱が下って元気になった。
その後、源助は大蛇の死体を懇ろに葬り、床浦の谷に小祠を建てて祀った。
それ以来、温江村では稲架は八段にせず、九段にするようになったという。

『加悦町史 資料編 第一巻』「床浦明神のはなし(温江)」より


現在、床浦明神は温江の大虫神社に合祀されています。


伝承地:与謝野町温江


災い石

災い石 (わざわいいし)


昔、高城山山麓の田圃の畦に、子供の頭大の丸い石があった。
この丸石に触れると、高城山から白い矢が飛んできて災いを受けると言って、誰も触らなかった。
だがその後、石は基盤整備のため、祈祷してから別の場所に移されたという。

『鶴林 特集号「伝承」』「諸行事」より


伝承地:福知山市三和町田ノ谷(石の所在は不明)


白髭の老人

白髭の老人 (しろひげのろうじん)


延宝元年(1673)、河内国の小坊主・儀北は丹波国の円通寺を目指して旅をしていた。
その道中、春日庄長谷宿の外れで休んでいると、どこからともなく二匹の銀狐が現れ、儀北を促すように飛び跳ねた。
不思議に思い銀狐について行くと、やがて草に埋もれた屋敷に辿り着いた。
屋敷には大きな桜の木が生えており、そのそばに牢獄らしきものがあった。
すると銀狐はスーッと姿を消し、牢獄の中から鍬を持った白髭の老人が現れ、「ここは鎮守の領地である。何用で立ち入った」と聞いてきた。
儀北が「銀狐に案内されて来た」と説明すると、老人は「お前は高徳の師と見える。ここに堂を建て俗界を浄化する気はないか」と聞いてきた。
だが儀北が修行中の身だと言って断ると、老人は「修行をするなら円通寺に行くのはやめ、長谷宿の奥にある庵でしばらく里人に説教をして済度するように」と告げ、あっという間に白雲と化してしまった。
その後、儀北は老人の言葉に従って長谷宿の奥の庵に移り住み、数年間民衆の教化に努めたという。

『由緒を尋ねて』「国領の流泉寺」より


伝承地:丹波市春日町国領


かろびん

かろびん


一条天皇の時代(986~1011)、“かろびん”という、顔は人間に似て、体は鳥の姿のものが山中村で羽を休めていた。
そこへ酉気という仙人が来たが、通力を失い、かろびんと共に過ごして遂に夫婦となった。
その後仙人は死んだが、かろびんはこの地に留まっていたことで自然と羽が腐ってしまい、天に帰ることが出来なくなった。
かろびんは露を食物として長い年月を過ごし、曾志比丘という人に頼んで入定したという。

『与謝郡山中村旧記』より


名前や人面鳥というフォルムから考えるに、かろびんとは迦陵頻伽(かりょうびんが)のことじゃないかと思います。
迦陵頻伽とは、上半身が人、下半身が鳥(雀や水鳥)の姿をした仏教世界における想像上の鳥です。
非常に美しい声で鳴き、その声は仏の次に素晴らしいものだとされていて、極楽浄土に棲むとも、その美声で仏法を説く存在とも伝えられています。(『日本の美術』481号「人面を持つ鳥-迦陵頻伽の世界」)
何で浄土の鳥が人間界の片田舎にいたのかはわかりませんけど。

ちなみに、参考資料には酉気仙人が通力を失った理由は書かれていません。
『今昔物語集』に「飛行術を会得した久米という仙人が大和国の吉野川を飛んでいる時、川べりで洗濯をしている女の白いふくらはぎを見て心が乱され、通力を失ってしまった。仙人は女の元に落下し、その後二人は夫婦になった」というエピソードがありますが、ひょっとすると酉気仙人もかろびんの美しい?姿を見てドギマギし、その結果通力を失ってしまったのでしょうか。

また、宮津の地誌『宮津府志』には「皆原村(山中村の西隣)の山中に“迦陵頻伽の塚”という古塚があり、昔、ここから音楽が聞こえた。この塚に近寄れば祟りがあると恐れられ、村人は周辺の草木を刈り取らない」という話があります。
この塚もかろびんと何かしら関係があるのかもしれませんね。かろびんが入定後に埋められた塚なのかも。


伝承地:宮津市山中


身なげつぼ

身なげつぼ (みなげつぼ)


後ヶ浜に“身なげつぼ”という岩がある。
昔、若い女がここで身投げし、その死体が沖にポッカリと浮かんだ。
だが漁師たちは気味悪く思い、女の死体を見ても見ぬふりをしていた。
ところが、ある漁師がその死体を見つけ、「可哀想に、わしはこれから漁に行くので乗せてやれないが、帰りに乗せてやるからここで待っていろ」と声をかけた。
そして漁を終えて戻って来ると、強い波があったにも拘らず、死体は見つけた時と同じ所に浮かんでいた。
漁師は「この女が弔ってくれと言っているのだ」と思い、死体を船に引き上げ、家に連れ帰って供養した。
するとそれから、その漁師は大漁が続き、やがて大金持ちになったという。

『丹後町の民話』「身なげつぼの話(間人)」より


海辺の一部地域では、海で見つけた水死体を「流れ仏」「エビス」「オホトケ」などと呼び、陸に連れて帰れば豊漁になると信じられていました。
逆に「水死体を連れ帰らずに見逃せば鰹が寄り付かなくなる(岩手県)」、「水死体を拾わないで海に押し出した人が七日経たずに死んだ(東京都・八丈島)」など、水死体を無視すれば不幸になるというパターンもあったようです。(『海村生活の研究』『ものと人間の文化史109 漁𢭐伝承』)

この俗信は京丹後市の沿岸地域にも広く見られるので、以下に簡単に紹介します。

網野町遊地区→水死体をエビスとして祀ると大漁になる。
同町磯地区→水死体(ドザエモン)を拾うと縁起が良い。
丹後町竹野地区→漁中に水死体を見つけたら「待っとれ」と言う。すると死体は戻って来るまで待っているので連れ帰る。死体を見つけたら漁が良くなる。
同町間人地区→水死体に「待っとれ」と声をかけるとそこで待っている。死体を丁重に扱えば良い漁が出来るが、放っておくと不幸になる。
(『京丹後市の民俗』)

身なげつぼ
身なげつぼ(壺)は後ヶ浜西側の岩場の端っこにあります。
甌穴(ポットホール)という潮溜まりになっていて、中に2mくらいの大きな丸い岩が沈んでいます。
穴に転げ落ちた岩が長い年月をかけて波の力で削られ、ここまで丸くなったのでしょうか。自然のパワーってすごい。

身なげつぼの岩
身なげつぼの中の岩。
すぐ横の海から波がざんぶざんぶと流れ込んでいました。満潮の時はこの一帯が沈むっぽいですね。


伝承地:京丹後市丹後町間人


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