丹波・丹後の妖怪あつめ

京都府北部(丹波・丹後地域)の怪異妖怪伝承を紹介するブログです。

2025年06月

子育て幽霊

子育て幽霊 (こそだてゆうれい)


ある夏の深夜、氷上町石生のトラック運転手が但馬の柴(兵庫県朝来市)の外れで若い女を乗せた。
ところが丹波の青垣町へ抜ける遠坂トンネルに入ると、いつもより冷気を感じ、前方に燐火が飛んで行くのが見えた。
トンネルを抜け、遠坂集落の灯りが見える所で女を降ろすと冷気はなくなった。
その後、女は秋の初めまで強い夕立があった日の深夜に限って現れ、運転手は但馬から丹波まで乗せて行った。
この女は遠坂に嫁いでいたが、子を身籠ったまま離縁され、柴で男児を産んで死んだ。
男児は丹波の女の実家に引き取られたため、夜な夜な但馬の墓から我が子の元へ乳を飲ませに通っていたのだという。

『現代民話考[3] 偽汽車・船・自動車の笑いと怪談』「子育て幽霊」より


運転手は女が幽霊だと気づいていたんでしょうか。
気づいていながら乗せていたんだとしたら……運転手の度胸と優しさは天井知らずですね。

タクシーを利用するお姫様


伝承地:丹波市青垣町遠坂-朝来市柴


頭が半分の人形

頭が半分の人形 (あたまがはんぶんのにんぎょう)


世屋の真ん中に小さな祠があり、そこに頭が半分しかない人形が地蔵と共に祀られているという。
昔、ある村人が大雨の中を帰っていたが、途中で足を滑らせ谷底へ落ちてしまった。
村人は妻の夢枕に立って自分の居所を教え、数日後にようやく発見されたが、その死体は頭が半分潰れた無残なものだった。
そこでこの村人の霊を慰め、二度と事故が起きないようにするため、頭が半分の供養人形が作られたのであった。
ところがその後、人形が村人たちの夢枕に立つようになった。
人形が夢枕に立った家では、決まって何事かが起こるため、村人たちは人形がそれを知らせに来ているのだと考えたという。

『京都ミステリーの旅』「頭が半分の不気味な人形」より


伝承地:宮津市上世屋?


月の輪

月の輪 (つきのわ)


二箇村と苗代村の境に“月の輪”という三日月形の小さな田がある。
この田は地頭(領主)も祟りがあると言って除地にされているが、米を作らなければ両村に祟りがあるという。
そのため、二箇村の義右衛門という男が身を清め、炊事の火を別火にして米を作った。
この田で出来た米は伊勢神宮の御師・幸福出雲太夫へ初穂として献上し、稲藁は全て田の中へ入れ、翌年の肥料にしたという。
また、不浄の肥料を入れたり、女が田に入ると祟るとも言われている。

『丹後国中郡誌稿』「名勝」より


月の輪田
二箇の月の輪田。三日月田とも。
豊受大神が清水戸に浸した種籾を蒔いて稲作をし、とれた稲種を天照大神に献上したという伝説があり、稲作発祥の地だと伝えられています。(『現地案内板』)
日本各地にある月の輪田の伝承地の中で、三日月型の田圃が現存しているのはここだけなんだとか。
元々は少し離れた場所にありましたが、昭和四十二年(1967)の耕地整理の際に現在の場所に移されたそうです。
その後は長らく耕作放棄地になっていましたが、月の輪田復興のため、平成二十五年(2013)から古代米の栽培が行れるようになりました。(ウェブサイト『ようこそ月の輪田と清水戸』)

ちなみに、かつて舞鶴市田中にも「月代田」という三日月型の田圃があったらしく、そこは美しい少年のような天女が拓いた田圃だと伝えられています。(『舞鶴の民話 第四集』)


伝承地:京丹後市峰山町二箇


休み石

休み石 (やすみいし)


泊の七神社(七社大明神)近くの大町という田圃の中に“休み石”と呼ばれる上部が平らな三尺(約90cm)程の石がある。
七神社には七柱の神が祀られているが、神々は社の中でかしこまっていると退屈なので、この石に腰かけ、夕涼みをしたり話をしたりして休憩するという。
休み石を動かせばその人の家族がぼけると言われ、誰も触らなかったという。

『語りによる日本の民話 10 丹後 伊根の民話』「七社大明神の休み石」より


七社神社は井室・六万部・泊の三集落の氏神とされていますが、昔は自分の村のものにするために集落同士で御神体を取り合ったことがあったそうです。
ある時、井室の村人たちが七社神社から御神体を背負って持ち出したところ、途中で後光がさして周囲が明るくなり、そのせいで泊の村人に見つかってしまいました。
御神体が再び泊に戻された後、罰が当たったのか、井室集落に流行病が蔓延しました。
ですが御神体の持ち出しに関わらなかった二軒の家からは、一人も病人が出なかったと伝えられています。(『丹後 伊根の民話』)


伝承地:伊根町泊(休み石の場所は不明)


夜泣石

夜泣石 (よなきいし)


暦応四年(1341)、足利尊氏は後醍醐天皇の供養のため、猪崎に醍醐寺を建立した。
工事が始まり、境内の地均しをしている時、五段に階層のある奇形の台石と大きな盤石が発掘されたので、これらを庭の隅に据え置いた。
尊氏は時々現場に来ていたが、その際はこの盤石を踏み、台石に腰掛けて工事を監督したという。
そして立派な大伽藍が完成し、住職は尊氏が腰掛けた台石を腰掛石、尊氏の足跡が残された盤石を足跡石と名づけ、共に庭園に据えて大切に保存した。

時は移り江戸時代、福知山藩藩主の朽木公は、醍醐寺の近くにある原野でよく鴨猟を行っていた。
猟の時はいつも醍醐寺で休憩をしていたが、ある日、庭園で見かけた腰掛石に一目惚れした。
それからというもの、朽木公は猟の度に寺を訪れては「この石を譲ってくれ」と懇望するので、住職も遂に断り切れず、腰掛石を献上した。
朽木公は喜び、早速石を城内に運ばせ、寝所の近くの庭園に据え置いた。
ところが深夜になると、庭園の腰掛石が「醍醐寺へ帰りたい」と泣くようになった。
あまり執拗に泣き続けるので朽木公も困り果て、遂に石を醍醐寺へ返却したという。
以来、腰掛石は夜泣石と名前を変え、足跡石と共に寺の名石として大切に保管されている。

『猪崎の伝説と民話』「醍醐寺と足利尊氏・夢告地蔵と夜泣石」より


石が泣くお話。
男岩(福知山市)

伝承地:福知山市猪崎・醍醐寺


九頭の大蛇

九頭の大蛇 (くずのだいじゃ)


藤岡の東窟寺は法道仙人開基の寺と伝えられている。
この寺の裏山を登った所に洞窟があるが、昔そこに九頭の大蛇が棲んでいた。
大蛇は毎年人身御供を取っており、ある年、庄屋の娘がその役に当たった。
両親は嘆き、娘の身代わりを捜して諸国を巡ったところ、阿波国(徳島県)のある少女が身代金を貰うという条件でその求めに応じた。
そして少女は受け取った身代金を母に渡して家の急難を救った後、丹波国へ来て人身御供になろうとした。
それを知った法道仙人は健気な少女を救うため、大蛇仏の修法を行い大蛇を成仏させたという。

『多紀郷土史考 上巻』「東窟寺」より


『丹波のむかしばなし 第一集』では、九つの頭を持つ大蛇ではなく頭一つだけしかない普通の大蛇となっています。(それ以外は本文とほぼ同じ内容)
また『多紀郷土史考 下巻』では、九頭の大蛇は当時この辺りにはびこっていた葛族(九頭=葛)という悪い奴らのことで、それを法道仙人が教化したのではないかと考察されています。


伝承地:丹波篠山市藤岡奥


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