丹波・丹後の妖怪あつめ

京都府北部(丹波・丹後地域)の怪異妖怪伝承を紹介するブログです。

2025年06月

賀良利平の祟り

賀良利平の祟り (からりへいのたたり)


安永の頃、布袋野村に賀良利平という男がいた。
利平は素行が悪く、いつも諍いを求めて村の安寧を破り、風紀を乱して人々を困らせていた。
ある日、利平は庄屋の宴会に招かれたが、些細なことから中道重郎右衛門という男と口論になり、凶器を持ち出して脅迫する騒ぎを起こした。
遂にたまりかねた庄屋は利平殺害を決心し、代官の許しを得た後、竹槍で武装した村人たちを利平の家へ送り込んだ。
これには利平も困り果て、畑村の金剛寺に逃げ込んで院主に助命を嘆願した。
そこで院主に不心得を諭され出家することを勧められたが、利平は仏門に入ることを好まず、寺を辞して川沿いに自宅へ帰ろうとした。
だがその途中で村人に見つかり、遂に殺されてしまった。

ところが利平の死後、村に数々の祟りが起こった。
庄屋が年貢米を江戸に届けた時、日本橋の群衆の中に死んだはずの利平の姿を見つけた。
庄屋は利平の怨みの籠った顔に怯え、村に帰ってから病床に伏し、熱病に苦しみながら死亡した。
また重郎右衛門や利平殺害に加わった人々も次々と不運に見舞われ、更には疫痢の流行や火災が立て続けに起こったため、村人たちは利平の祟りだと言って恐怖に陥った。
そこで村人たちは利平の魂を慰めるため、氏神(河上三神社?)の境内に正掲羅大明神として祀り、殺害した場所に碑を建て懇ろに弔ったという。

『熊野郡伝説史』「賀良利平遺跡(川上村)」より


江戸時代、布袋野村は幕府直轄の天領だったので、毎年年貢を江戸まで運んでいたそうです。大仕事ですね。
ちなみに『京丹後市の民俗』には、「利兵衛という素行の悪い男が宴会時に暴れ出したので竹槍で殺害し、その後供養のために石塔を建てた」とあり、本文の利平のように死んでから村に祟りを起こしたというくだりは書かれていません。名前も微妙に違っています。

賀良利平の碑
賀良利平の碑。
久美浜町布袋野から同町市野々へ向かう道端にあります。
『熊野郡伝説史』によると、この碑が建てられたのは安永八年(1779)の四月と伝えられています。
苔むしていてはっきりとは読めませんが、右側に「安永~」と年号らしき文字列があり、真ん中には「南無阿弥陀仏」と名号が刻まれています。


伝承地:京丹後市久美浜町布袋野


白岩

白岩 (しろいわ)


物部村の犀川という川の岸に“白岩”と呼ばれる大岩がある。
岩の根元は二里(約7.8km)に達していると言われ、表面に赤子の足跡がついている。
この岩を削ると赤子の泣き声が聞こえるという。
また、この岩を割って持ち帰り石垣などに使用すれば、必ず祟りがあるとも伝えられている。

『日本伝説集』「嬰兒の足跡」より


伝承地:綾部市物部町(白岩の場所は不明)


鬼の牙

鬼の牙 (おにのきば)


昔、新宮に力持ちの男がいた。
ある時、男は青鬼と赤鬼の力比べに参加し、両方に勝利した。
すると赤鬼が「何でも好きなものを持っていけ」と言うので、男は「それならお前の牙をくれ」と言って赤鬼の牙を引き抜いた。
そして鬼の牙を持って村の近くの川まで戻ると、洗濯中の老婆に「鬼と力比べをしたらしいが、結果はどうだった」と尋ねられた。
男が「鬼よりわしの方が強かった」と言って鬼の牙を取り出すと、老婆は「見せてくれ」と頼んでその牙を手に取った。
すると老婆は口を開けて鬼の牙をはめ込み、「ああ、よく合う」と言って牙の入った歯を見せつけた。
そして恐ろしい鬼婆となって空高く舞い上がり、奥山の方へ姿を消した。
男に負けた赤鬼が老婆に姿を変え、牙を取り返しに来たのだという。

『おおみやの民話』「鬼の牙」より


伝承地:京丹後市大宮町新宮


久下弥三郎時重の屋敷

久下弥三郎時重の屋敷 (くげやさぶろうときしげのやしき)


金屋村に久下弥三郎時重の屋敷跡がある。
屋敷の東の土塁は藪で、西の土塁には八幡社があり、そこに時重を祀っている。
この屋敷に古井戸があるが、時を決めて日に二度、井戸水が濁るという。
村人が屋敷内の竹や木、土を取れば祟りがあり、また村の中で「弥三郎」と名づければ障りがあるという。
そのため、地主は検地の際に屋敷の謂れを説明し、除地扱いにすることを願った。
検地役人はその申し出を受け入れ、屋敷は八幡社の境内として免租地になったという。

『丹波志 氷上郡』巻之五「久下弥三郎時重旧栖」より


久下弥三郎時重は鎌倉時代末期の武士で、足利尊氏が丹波国篠村(亀岡市篠町)で挙兵して各国から軍を招集した時、兵百十騎を率いて一番乗りで駆けつけたと伝えられています。(『太平記』)
また、尊氏が幕府軍に追われ丹波国井原(丹波市山南町)に身を潜めている時、地頭の時重が救援に駆けつけ、追っ手を攪乱して尊氏を西国に落ち延びさせたという話もあります。(『丹波志』)


伝承地:丹波市山南町金屋


若森の観音

若森の観音 (わかもりのかんのん)


昔、八五郎という男が殿谷峠の麓で畑仕事をしていた。
すると一人の坊主が通りかかり、「足が痛くて歩けないので若森まで送ってくれませんか」と頼んできた。
八五郎は承諾し、坊主を背負って若森まで送り、大きな石の上に降ろして帰ろうとした。
その時、坊主に「決して後ろを振り向いてはいけません」と強く言われたが、八五郎は好奇心から途中で後ろを向いてしまった。
すると若森の観音の方へ、一本の白羽の矢(大きな鷹とも)が飛んで行った。
その後、八五郎は約束を破ったことで盲目になり、若くして死んでしまったという。

『園部町の口碑、伝承 おじいさんたちの話』「こしかけ石と観音さん」より


若森の観音とは、園部町の普済寺にある観音堂のことです。
ちなみに、若森から殿谷へ通じる道の途中の三田という所に「腰かけ石」という平らな石があり、坊主はこの石に腰を下ろして休憩したと言われています。
この石に腰かけると罰が当たり、お尻が引っ付いてしまうと言い伝えられているので、誰も座らないそうです。(『忘れかけたふるさとのお話』)


伝承地:南丹市園部町若森


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