丹波・丹後の妖怪あつめ

京都府北部(丹波・丹後地域)の怪異妖怪伝承を紹介するブログです。

2025年07月

人形の怪

人形の怪 (にんぎょうのかい)


昔、丹波国の山里に乙部某という裕福な庄屋の家があり、一人の娘がいた。
娘は幼くして母を亡くしたが、田舎には稀な美しい容貌で、富豪の一人娘ということもあって大切に育てられた。
娘が十三歳になった頃、福知山城下に人形芝居の一座が訪れ、見物人が山のように押し寄せた。
娘も乳母に連れられて芝居を見物に来たが、田舎育ちの娘は人形の巧みな振舞いに魅了され、特に小野頼風(*)が女郎花という女と契る場面に感じ入った。
それ以来、娘はまだ見ぬ恋人に想いを馳せるようになり、心は上の空で思いはくずおれ、やがて病を患い床に伏してしまった。
娘は日に日に衰弱していき、遂に心の悩みに耐え切れず、乳母に「父に頼んでこの間の芝居で見た小野頼風の人形を手に入れてほしい」と涙ながらに訴えた。
乳母から話を聞いた父は、溺愛する我が子のためならばと人形芝居の一座の元を訪れ、大金を払って強引に頼風人形を買い取った。
すると娘はとても喜び、病も忘れて人形を可愛がった。
常に人形を抱きかかえ、共に食事をし、服を着せて髪を結い、夜は同じ布団で眠り、物も言わず笑いもしない人形に語りかける様は、まるで気が狂ったようだった。

時が経ち、娘が十六歳になった頃、父は名家から婿を取って家を継がせようと考えた。
娘も物言わぬ人形を愛でることが虚しくなったのか、その婚姻を承諾した。
そして婚礼の日、乙部の親族が集まる中、娘は婚礼の杯を取り上げて婿に渡そうとした。
するとその時、件の頼風人形がどこからか走って来て、娘の持つ杯を叩き落とし、そのまま娘の膝に抱きついて倒れた。
それを見た人々は慌てふためき、婚礼の場は騒然となり、娘は高熱を発して意識朦朧の状態に陥った。
父は「これはきっと狐狸の仕業に違いない。この人形は打ち砕いて捨ててしまおう」と言って、鋤や鍬を振るい人形を粉々に破壊した。
更に後から祟りがないようにと、近くに住む修験者を招き、事情を説明した。
すると修験者は「それは狐狸の仕業ではない。昔、異国で暑さに苦しむ女が鉄柱に抱きついて涼を取っていたが、鉄柱の気を感じて懐妊し、鉄丸を産んだ例もある。今回は人の形を具えた物を長い間深く執着したことで、その念を感じた人形が怪事をなしたのだ。このままではまた怪事が起こるので力の限り害意を除いてみよう」と言った。
そして修験者は粉々になった人形の破片を集め、壺に収めて固く封をしてから、近くの山の麓に深く埋めて懇ろに供養した。
すると娘も少し回復したように見え、人々は大いに喜び、修験者に頼んで更にお祓いをしてもらった。
ところがある夜、娘はうたた寝をする看病人の目を盗み、寝床を出て行方を眩ませた。
人々は驚き、手分けして方々を捜索したところ、娘は頼風人形を埋めた所の囲いの中にいた。
娘は、片手を土の中に引き込まれた状態で事切れていた。
あまりの出来事に人々は声も出ず、父は狂ったように泣き叫んだが、最早どうしようもなく、修験者に全てを話して供養を行うことにした。
これは心のない人形が長い間妄念に囚われた結果、悉皆成仏(「万物は仏になる」という仏教の言葉)の道を誤ったからだという。
せめて罪障消滅のためにと、人形と同じ土の中に娘の亡骸を埋め、五輪塔を建てて懇ろに弔った。
今も近隣の人々はそこを「人形塚」と呼び、この怪事を語り伝えている。

『奇説雑談』巻之二「木偶恋慕に感じて処女と同穴を契事」より


(*)小野頼風は能楽「女郎花」に登場する人物。頼風は都の女と恋仲にあったが別の女に浮気する。女は頼風が自分を捨てたこと恨み川へ入水。すると女の死体を埋めた塚から女郎花が生えた。だが頼風が近寄ると花は離れてしまい決して触れられない。頼風は悲しみのあまり女の後を追って入水。後に邪淫の因業で責め苦を受ける頼風の霊が塚から現れ旅の僧に成仏を願う、というもの。(『読謡集 第十巻』)


伝承地:丹波のどこか(福知山市?)

鯰ヶ淵

鯰ヶ淵 (ねんがぶち)


今回は、かつて久美浜の畑集落にあった“鯰ヶ淵”にまつわる話をまとめて紹介します。

昔、畑集落の街道沿いに「鯰ヶ淵」という淵があった。
ある男が伊勢参りの途中、鯰ヶ淵で又右衛門と名乗る男に出会い、二人で参詣することにした。
だが不思議なことに、又右衛門は道中の宿に泊まっても、決して風呂に入らなかった。
そして伊勢参りを済ませ再び鯰ヶ淵まで戻って来ると、又右衛門は男に別れを告げ、鱗皮の財布を渡して忽然と姿を消した。
又右衛門は鯰ヶ淵の主の大鯰だったという。(『熊野郡伝説史』)

昔、鯰ヶ淵に「又右衛門」と「いと」という大鯰の夫婦が棲んでいた。
ある日、村の男が大雨で崩れた土手の様子を見に行くと、荒れた田圃の水溜まりに大鯰が流れて来ていた。
男は大鯰を捕まえ、籠に入れて出石(兵庫県豊岡市)へ売りに行こうとした。
ところが鯰ヶ淵の前を通った時、淵から「いと、どこへ行く」という声がした。
すると大鯰が「ああ、私は出石へ行くんだなぁ」と言って籠から飛び出し、淵の中へ姿を消したという。(『久美浜町の昔話』)

鯰ヶ淵はどれだけ日照りが続いても、決して涸れることがなかったという。
ある年、村が旱魃に見舞われ、人々は鯰ヶ淵の水を汲み出して使おうと考えた。
ところが水を汲み出している途中、村に火の手が上がったので、人々は急いで現場へ駆けつけた。
だがどこにも火事の痕跡はなく、不思議に思いながら戻ると、淵は再び満々と水を湛えていた。
その後もそれが何度も繰り返されたので、人々は怖くなり、誰も淵に手をつけなくなったという。(『京都府熊野郡誌』)

『熊野郡伝説史』「鯰ヶ淵(川上村)」
『久美浜町の昔話 ふるさとのむかしばなし』「鯰が淵の話」
『京都府熊野郡誌』「鯰ヶ淵又右衛門」より


①は『久美浜町の昔話』にも載っていますが、こちらでは「又右衛門は伊勢参りの道中、猫のいる宿には絶対に泊まらなかった」というエピソードが追加されています。猫に食べられるから?
②はいわゆる「物いう魚」タイプの話で、他の地域にも類話があります。
ものを言った大魚(丹波篠山市)
③は久美浜町油池に同じタイプの話があります。

ちなみに鯰ヶ淵は『京都府熊野郡誌』では「まなずがぶち(なまずがぶちの誤記?)」、『久美浜町の昔話』では「ねんがぶち」と書かれ、それぞれ読み方が違っています。(『熊野郡伝説史』は振り仮名なし)
正しい読みがわからなかったので、とりあえず当ブログでは「ねんがぶち」を採用しました。


伝承地:京丹後市久美浜町畑(鯰ヶ淵は現存していない)


軍人山の洞穴

軍人山の洞穴 (ぐんじんやまのどうけつ)


天正年間、丹波亀山城は明智光秀軍の攻撃を受けた。
戦火を逃れた奥方や敗残兵たちは、敵の目から逃れるために軍人(神)山に洞穴を掘り、そこで穴居生活を営んだという。
その後、洞穴は長い間封鎖されていたが、ある時、石扉を開けて中へ入った人がいた。
するとその人は急に目を回して血を吐き、胸が苦しくなってその場に卒倒したという。

『我が郷土富本村』「軍人山旧忠魂碑裏の洞穴」より


軍人(神)山は鎌倉時代の武士・青砥藤綱が死んだ場所とも伝えられています。

ちなみに参考資料では「人が倒れたのは洞穴内に籠もっていた炭酸ガスのせいだろう」と考察されています。
二酸化炭素中毒って吐血するんでしょうか。


伝承地:南丹市八木町刑部・多国山?


蘇った男

蘇った男 (よみがえったおとこ)


丹波国船井郡藍田村に山田彦七という信心深い若者がいた。
だが元禄二年(1689)十二月一日、彦七は二十七歳で死亡した。
ところが翌日に蘇生して、「私は冥途に行き、この仏舎利を頂戴してきた」と語った。
その左掌には光り輝く仏舎利が握られており、村人たちは不思議な結縁だと言って彦七の元へ集まり念仏を唱えた。
すると三日後の丑の刻、彦七は穏やかに大往生を遂げた。
その後、仏舎利を探したがどこにも見当たらず、村人たちは「彦七が冥途へ持って行ったのだろう」と噂したという。

『新著聞集』「蘇生して冥途の舎利を持来す」より


伝承地:京丹波町のどこか(船井郡に藍田村という村はない)

椎の木の古狸

椎の木の古狸 (しいのきのふるだぬき)


昔、等楽寺と堀越の間の道端に二本の椎の木があった。
そこは化け物が出ると言われており、夜に通ると大入道が立っている、向かい側の松の梢に青白い灯が灯る、赤子の泣き声が聞こえる、椎の木の葉がぱらぱらと鳴って砂が撒かれるなど、度々不思議なことが起こっていた。
日中でも、魚売りが見慣れぬ茶屋の綺麗な番頭に誘われて休憩したところ、いつの間にか茶屋も番頭も消え、荷物の魚が全てなくなっていたということがあった。
これは全てこの辺りに棲む古狸の仕業だと言って、人々は通るのを嫌がっていた。
そんなある日、平谷村の重兵衛という若者が化け物の話を聞き、腰に刀をさして退治に向かった。
そして椎の木まで来ると、その片方に登り、枝に座って化け物が現れるのを待つことにした。
だがいつの間にか眠ってしまい、重兵衛は木の下から自分の名を呼ぶ声で目を覚ました。
既に辺りは暗くなっており、下からは「重兵衛や。母の具合が悪いから帰って来い」という声が聞こえてきた。
重兵衛はいよいよ化け物が出たと思い、「誰が帰るものか。俺のお母は元気でぴんぴんだい」と言って降りようとしなかった。
声はその後も「母の死に目に会いたくないのか」と呼び続けたが、重兵衛は黙って無視していた。
すると遠くから鉦の音と共に葬式の行列が現れ、椎の木の下に墓を建て、灯籠を置いて去って行った。
しばらくして灯籠の灯りが消えたかと思うと、白いものがちらりと見え、それが六尺(約1.8m)もある幽霊になった。
幽霊は髪を振り乱し、目をギロギロと光らせながら、重兵衛のいる枝目がけて軽やかな動きで登ってきた。
そして細い手を伸ばして掴みかかってきたので、重兵衛はすかさず刀を抜いてその手を斬りつけた。
すると幽霊は落下し、そのまま消えてしまった。
夜が明けてから木の下を見ると、大きな古狸が両手を斬られて死んでいた。

重兵衛はその古狸の死体を村ヘ持ち帰り、狸汁にして村の皆に振舞おうとした。
ところが夏だったこともあり、臭いがひどくて食べられず、死体は草原に埋められた。
するとその翌年、古狸を埋めた所から触ると嫌な臭いを出す臭木が生えてきた。
人々は「きっと狸の妄念から生えてきたのだ」と言って、臭木を鎌で刈り取ったが、再び芽を出し、生長して嫌な臭いを放つ白い花を咲かせた。
そして方々に実をまき散らし、山や草原に沢山の臭木を生やしていった。
今も平谷から椎の木の辺りには多くの臭木が生えており、人々に嫌がらせをしているという。

『丹後の民話 第三集 ふるさとのむかしばなし』「古狸とくさ木」より


以前に紹介した“周枳峠の化け物”と同じタイプのお話ですが、こちらは化け物の正体である古狸を退治した後に嫌なエピソードが追加されています。
死してなお臭木を生やして人々に嫌がらせをする狸の執念たるや。
ちなみに重兵衛の出身地の平谷村は、ある大雪の春に起こった雪崩で村人全員が生き埋めになり、村ごと消滅したという伝説があります。切ない。


伝承地:京丹後市弥栄町等楽寺


大歳神社の化け物

大歳神社の化け物 (おおとしじんじゃのばけもの)


大化の頃(645~650)、本郷村の大歳神社の氏子から一年に何人もの死者が出ていた。
村人たちは神の禍であると考え、人身御供を捧げることにした。
そしてある家が人身御供に選ばれ、家人は嘆き悲しんだが逃れることは出来ず、一心に神に祈り、断食して神前に体を投げ出して籠っていた。
すると三十七日目の明け方、光と共に一人の童子が現れ「江州犬上郡の多賀明神(滋賀県犬上郡多賀町の多賀神社)は伊弉諾命を祀っている。かつてここにも人身御供の災難があったが、鎮兵六という犬が化け物を倒したことで禍を逃れた」と告げた。
そこで村人たちは犬上郡へ行って鎮兵六を借り受けると、犬を箱に入れて神前に供え、武器を手に隠れて待ち構えた。
やがて天地を揺るがす轟音と共に大きな化け物が現れ、拝殿に躍り上がり供えられた箱を開けようとした。
その瞬間、箱の中から鎮兵六が飛び出し、化け物に襲いかかった。
両者は取っ組み合いになり、やがて化け物は足を踏み外して縁側から下に転げ落ちた。
そこへ村人たちが一斉に打ちかかり、遂に化け物を退治することが出来た。
その後、鎮兵六は村で大切に飼われていたが、白鳳元年(661)正月四日に死亡したため、形見として爪を一枚いただき、亡骸は故郷へ送り返したという。
そして大宝元年(701)、本郷村は村名を改め、犬飼村と称するようになった。

『犬飼村の伝承と遺跡』「丹州多紀郡当村大歳大明神畧縁(前川家文書)」より


犬が生贄を取る化け物を倒す伝説は各地にあり、古くは『今昔物語集』(美作国の二匹の犬が猿軍団を退治する話)にも見られます。
長野県駒ケ根市・光前寺に伝わる霊犬早太郎伝説もこのタイプですね。
また『郷土の民話(丹有編)』にも同じ話がありますが、こちらでは化け物の正体は「三つ眼の大狸」とされており、化け物感がアップしています。
『日本伝説集』では、人身御供に選ばれた家の娘の飼い犬が娘を守るために化け物(古狢)と刺し違えるという話になっており、篠山の郷土本『爺のはなし』では、化け物は二匹に増え、借り受ける犬も「土佐国の当千大夫」に変わっているなど、書籍によって細かな違いが見られます。

大歳神社
犬飼の大歳神社。
化け物退治に使った太刀や薙刀、切り取った化け物の片足、鎮兵六の爪が保管されているそうです。見てみたい……。
ちなみに大歳神社では、毎年十二月の申の日と戌の日にお祭りが行われ、戌の日の祭には餅がまかれますが、この餅を食べるとお産が軽くなるという俗信があります。
また正月四日には鎮兵六を弔うため、地区の当番の人が樒の花を供える習わしもあるそうです。
昔は人身御供の伝説に倣い、生きたイナ(ボラ)を二匹、イナダ姫と名づけて神前に供えていました。
名前は八岐大蛇の生贄にされかけた稲田媛(櫛名田比売)にちなんでいるのでしょうか。


伝承地:丹波篠山市犬飼・大歳神社


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