丹波・丹後の妖怪あつめ

京都府北部(丹波・丹後地域)の怪異妖怪伝承を紹介するブログです。

2025年10月

駒沢大僧上

駒沢大僧上 (こまざわだいそうじょう)


長安寺の開山堂の隣に“駒沢大僧上”という高位の天狗を祀る祠がある。
昔、長安寺の小僧が鐘撞堂で掃除をしていると、大きな坊主が来て「私は今から全国へ旅に出かけるから、お前もついて来ないか」と言って山門の石段を飛び降りた。
すると小僧も引きつけられるように坊主のお供をすることになり、京都の鞍馬寺、紀州の熊野山、箱根山から出羽の羽黒山と、一週間程の旅に連れて行ってもらった。
一方、寺では小僧が行方不明になったことで捜索が行われたが、人々は神隠しにあったと諦めていた。
ところが一週間後、太い藤葛で手足を縛られ、寺の鐘楼の横に寝かされている小僧を発見した。
小僧は「大きな坊さんのお供をして東日本を歩いてきた」と答えたが、その坊主こそ駒沢大僧上の位を持つ天狗だった。
その後も二、三回、小僧がいなくなることがあったが、人々は「また天狗さんのお供をして出かけたのだ」と言って、誰も心配しなくなったという。
駒沢大僧上は長安寺の守り神とされ、「最祥院様」とも呼ばれている。

『語りつぐ 福知山老人の知恵』「駒沢大僧上(天狗さん)」より


返却時に小僧を縛る必要はあったんだろうか……。

長安寺
長安寺・山門と鐘撞堂。
境内の薬師堂には、三上ヶ嶽(大江山)の三鬼を退治した麻呂子親王の作とされる薬師如来像が祀られています。

開山堂
開山堂。
長安寺開祖・眼光恵禅師の木像が安置されているそうです。
お堂の周囲を探しましたが、駒沢大僧上の祠らしきものは見当たりませんでした。
お寺の方にお聞きしたところ、祠は開山堂ではなく寺の裏山(姫髪山)にあるらしい、とのこと。
(祠の正確な位置は不明)

*参考書籍には「大僧正」ではなく「大僧上」と書かれていたので原文のままの表記にしました。


伝承地:福知山市奥野部・長安寺


鬼住池の大蛇

鬼住池の大蛇 (きすみいけのだいじゃ)


岸谷の人々は、舞鶴と綾部の境にある幾津見峠を「鬼住峠」と呼んでいる。
昔、鬼住峠と弥仙山との間の尾根付近に「鬼住池」という池があり、そこに棲む大蛇が人々を呑み込み危害を加えていた。
そこで岸谷村の五衛門という男が毎日弓矢の練習をして腕を磨き、遂に大蛇を退治した。
そして大蛇は三つに切られ、布敷の池姫神社、今田の倭文神社、城屋の雨引神社にそれぞれ祀られた。
だが大蛇の祟りにより、五衛門の家は七代にわたり不幸が続いたという。

『まいづる田辺道しるべ』「幾津見峠(鬼住峠、木住峠)」より


この他にも「岸谷の五右ヱ門という男が菖蒲の葉を矢羽根にした弓矢で鬼住池の大蛇の片目を射貫いて退治した。だがその後大蛇の祟りを受け、五衛門の家には七代続けて片目の子供が生まれたので、大蛇の頭を池姫神社に祀った」という、本文の鬼住池の大蛇とよく似た話があります。(『森の神々と民俗』)

三断した大蛇を池姫神社や雨引神社に祀るという展開は、以前に紹介した“五老の滝の大蛇”や“日浦が谷の大蛇”の伝説とよく似ていますね。
舞鶴地方は退治した大蛇を三分割して祀る伝説が多い気がする。

ちなみに鬼住峠の由来については、ある商人が幾津見峠で何者かに殺され死体がうち捨てられていたから、幾津見峠に山賊が出没し通行人を苦しめていたから、などの伝説から幾津見峠を「鬼が住む峠」=「鬼住峠」と呼ぶようになったそうです。(綾部側では「木住峠」と呼んでいるが由来は不明)
峠一帯の山番地も「鬼住」という地名なんだとか。


伝承地:舞鶴市岸谷(鬼住池は現存していない)


ツチノコ/岩姫神社の白蛇

ツチノコ / 岩姫神社の白蛇 ( - / いわひめじんじゃのしろへび)
 

舞鶴のトチバへ通じる道の近くのワキガ谷に、ツチノコという丸い蛇がいる。
ツチノコは上にも下にも転がるので、ここに一人で行ってはいけないと言われていた。
また、途中にある岩姫神社(大岩神社?)には白蛇がいて、美女に化けて出るという。
大きな岩の隙間から白黒のユカタ柄の蛇を見た者もいるという。

『後世に伝える老人文集』「ツチノコ」より


その他のツチノコたち。


伝承地:福知山市大江町毛原付近?(ワキガ谷の正確な位置は不明)

蛇山岩尾城

蛇山岩尾城 (へびやまいわおじょう)


永正元年(1504)、和田庄の領主・谷出羽守兵部介は甥の和田斉頼を信州から婿養子として迎え入れた。
ところが永正十年(1513)、斉頼は家臣の讒言によって兵部介を殺害し、和田庄の領主となった。
その後、斉頼は和田庄の北山にある岩尾城を居城としたが、兵部介の亡霊に憑かれたのか、悪夢に悩まされ、度々家臣を惨殺した。
また家中にも異変が頻発し、斉頼は己の犯した罪の深さに悶えながら暮らしていた。
同じ頃、信州から斉頼に従って来た家臣の石田寬助と妻の於蘭にも異変が起こっていた。
ある日、寛助が城勤めから帰宅すると、於蘭は何かに憑かれたような態度でどこか様子がおかしかった。
寛助は不審に思い、その夜は眠らずに妻の様子を窺っていたが、いつしか浅い眠りに落ちていた。
ところがうたた寝から目を覚ますと、いつの間にか横で眠る於蘭の髪がずぶ濡れになっていた。
寛助に気づかれずに出かけられるはずもないが、その日は於蘭に問いただすことなく黙っていた。
だがそれからというもの、夜な夜な髪を濡らして眠る於蘭の姿を見るようになった。
そんなある日、寛助が所用でいつもより遅い時間に帰宅すると、何故か玄関も雨戸も全て閉じられていた。
怪しんで小窓から家の中を覗くと、於蘭が唸り声を上げ、苦しみのたうち回っていた。
そして於蘭の腹から何匹もの子蛇が産まれ出て、床を這い回った。
その光景を見た寛助は信州に逃げ帰り、二度と和田庄に戻らなかったという。
その後も岩尾城には災いが続き、天文十三年(1544)、遂に斉頼は病死した。
そしていつしか城は「蛇山岩尾城」と呼ばれるようになったという。(『由緒を尋ねて』)

続いて『北はりま、丹波昔ばなし百話』に載る蛇山岩尾城の話を紹介します。

永正年間、和田庄の領主・谷出羽守兵部介は信濃から甥の和田斉頼を婿養子として迎えた。
ところが斉頼は部下に兵部介を殺害させ、和田庄の領主に成り代わった。
そして居城の岩尾城の麓にある明神池に兵部介の首を投げ込んだ。
この池の中央には祠があり、時々大蛇がとぐろを巻いていたので、村人たちは蛇池と呼んでいた。
だがその後、斉頼夫婦は兵部介の亡霊に悩まされる日々が続き、たまりかねた斉頼は妻を尼にして北和田に小屋を建て、兵部介の霊を慰めることにした。
また兵部介殺害に加わった足軽の石田某も、毎晩何かに襲われる夢を見ていた。
その頃、蛇池で二匹の大蛇が目撃され、村人たちは「蛇池で二匹の大蛇が絡み合っていた。一匹は白蛇だった」「二本の角を生やした黒髪の大蛇だった」などと噂した。
石田はその噂を聞き、遂に病気になって寝込んでしまった。
するとその年の夏の夜、故郷の信濃に残してきた恋人の加代が石田の家を訪ねて来た。
石田は「看病に来た」と言う加代に驚きつつも手を取って家の中へ入れたが、その手は氷のように冷たかった。
その夜から加代が世話をしてくれたので、石田の病気も良くなり、仕事に復帰するまでに快復した。
石田は五日毎に城の警護で朝帰りをしていが、その時に限って加代の目がキラリと光り、髪が濡れていることを不審に思っていた。
そんな時、同僚から「加代が蛇池に立っていた」という話を聞き、石田は不安を募らせていった。
そして次の警護の夜、加代の様子を探るために城を抜け出して家に戻ると、中からバタバタと畳を打つ音が聞こえてきた。
雨戸の節穴から覗いてみると、布団の上に大きな白蛇が横たわっており、その周りを生まれたばかりの子蛇が這い回っていた。
石田は驚き、故郷の信濃へ逃げ帰ったが、追いかけてきた加代の化身の白蛇に殺されてしまったという。
それ以来、城は「蛇山岩尾城」と呼ばれるようになった。(『北はりま、丹波昔ばなし百話』)

『由緒を尋ねて』「和田の蛇山岩尾城」
『北はりま、丹波昔ばなし百話』「蛇山岩尾城のいわれ」より


蛇山岩尾城の話は幾つかの書籍に載っていますが、それぞれ内容が微妙に異なっています。
丹波の古地誌『丹波志』にも蛇山岩尾城の話がありますが、和田斉頼が兵部介殺害後に亡霊に悩まされるという記述はなく、蛇を出産した妻の話も「斉頼家臣の足軽の妻が夜に城へ通い、やがて大量の蛇を産んだ。その後足軽は故郷の信州に帰ったが、追って来た妻に噛み殺された」という内容になっています。
また『山南町誌』では、斉頼が兵部介を殺害するエピソード自体がなく、蛇を産んだ妻の話だけ書かれています。
その内容は「斉頼家臣の岩尾吉助の妻が毎夜城山に通い蛇の子を産んだ。出産を見られた妻は鬼女に姿を変え、信州に逃げた吉助を追いかけて喰い殺した」とあり、妻が鬼女に変身するシーンが加えられていますが、話の流れは『丹波志』とよく似たものとなっています。
いずれもストーリー展開はだいたい同じですが、本文の参考資料『由緒を尋ねて』以外は家臣の男が妻(恋人)に殺されるエンドになっています。救いがない。
ちなみに岩尾城がある城山は中腹に岩が連なっていて、まるで蛇が横たわっているように見えることから、その山の背に築かれた城を「蛇山岩尾城」と名づけたとも言われています。(『山南町誌』)


伝承地:丹波市山南町和田


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