丹波・丹後の妖怪あつめ

京都府北部(丹波・丹後地域)の怪異妖怪伝承を紹介するブログです。

2025年11月

石龍

石龍 (せきりゅう)


石龍(石竜)は岩石の間に棲む蛇のような生き物で、福知山市・与謝野町・宮津市に伝えられています。

●福知山市
昔、三岳村一ノ宮竹石の山奥に大岩があり、そこに石龍という蛇体の龍神が棲んでいた。
石龍は霊験もあらたかで、明治四十一、二年(1908,1909)頃は京阪神方面からも参詣者が訪れ、その数は谷を埋め尽くす程だったという。
石龍に悪戯をすれば腹痛になる、足腰が立たなくなる、目が見えなくなるなどの罰が当たるが、大岩に参って謝罪すればすぐに治ったという。
今も一ノ宮では石龍講が行われており、初夏から秋にかけて大岩の割れ目から石龍の姿を見ることが出来るという。(『福知山の民話と昔ばなし集』)

●与謝野町
幾地の蔵割口に巨岩があり、そこに石竜という竜神が棲んでいた。
だが、いつの間にか巨岩は削り崩されてしまったという。(『野田川町誌』)

●宮津市
宮津の小田村に石龍というものがいる。
形は蛇に似て、長さは30cmに満たず、岩の隙間に棲んでいるという。
気温の高い日は時々姿を現し、老いることもなく姿も変わらない。
古老曰く、石龍は百年以上生きているという。
何を食べているのかわからず、水に沈むもの、火に入るもの、空を飛ぶもの、土に潜るもの、木の内に棲むもの、果ては人の腹の中に生じるものまでいるという。(『丹哥府志』)

今福の滝山の奥に二つに重なった大石があり、石の間に石竜様という大蛇が棲んでいる。
石竜様は時々通行人に目撃されていたが、その姿を見ることは不吉の前兆とされ、姿を見た者は急な大雨に降られたり、家族に不幸があったりしたという。
そのため、誰も大石に近づかなった。(『宮津の民話 第一集』)

松尾から木子へ向かう道(現在の丹後縦貫林道)の途中に大きな岩がある。
その岩に小さな穴が開いており、そこに龍神の祠が祀られている。
龍神は雨の神とされ、ある青年が雨乞いを行った時、岩の穴から白い小さな蛇の腹が見えたという。
ある時、木子の大松金左右門という医者が「松尾の人々は蛇を神様だと言っているが馬鹿なことだ」と言って、木の枝で岩の穴を弄んだ。
すると帰宅途中に激しい腹痛を起こし、苦しむことになった。
後日、金左右門は岩に向かって謝罪し、それからは絶対に岩の穴を弄ばなかったという。(『私たちの小さな宮津・松尾史』)

『福知山の民話と昔ばなし集』「竹石の石龍さん」
『野田川町誌』「幾地の石竜」
『丹哥府志』「與謝郡 第一 宮津の庄」
『宮津の民話 -ふるさとのむかしばなし- 第一集』「今福の昔話」
『私たちの小さな宮津・松尾史』「石龍さん」より


京丹後市の石龍


伝承地:福知山市一ノ宮/与謝野町幾地/宮津市小田、今福、松尾


龍姫

龍姫 (たつひめ / りゅうひめ?)


敏達天皇(三十代)の皇子・円能という通力自在の法師が長老ヶ岳に来た時、ある民家で顔が猿そっくりの人に出会った。
その人は「私は允恭天皇(十九代)の末孫の齢貴仁という者です。この谷の奥にある洞窟で毎夜仏体が月日のように光り、地は鳴動して止まないので、どうかこれを鎮めていただきたい」と頼んだ。
翌日、円能はお供と案内役を連れて洞窟の奥へ向かうと、龍姫の霊体が鬼となって飛びかかってきた。
だが円能は少しも騒がす「止、歯、祠」と言うと、鬼はたちまち梟となって鎮まった。
円能が「何故この山に棲んでいるのか」と問うと、梟は頭を垂れ「妾は以前、広原海(わだつみ?)に棲んでいたが、孝安天皇(六代)の御代からこの地に来た。ここで千年の行をすれば天に昇って神になれると聞き、水神となって毎日行に励んでいる。どうか妾を祀って下さい」と言い終わると、恐ろしい龍に変化した。
そこで円能は「ここに棲むのであれば龍王と号し、五葉山龍王権現として崇めよう。今後は益々万民の安全を守るように」と言うと、龍は煙のように消え失せた。
その後、円能は龍姫との誓いを守り、仏体を刻んで洞窟の中に祀った。
これが長老ヶ岳の谷深くに祀られている龍王権現の由来であるという。

『和知町 石の声風の音』「長老山に関する伝説」より


長老ヶ岳は京丹波町と南丹市美山町にまたがる標高917mの山で、この山の権現谷という谷の洞窟に円能が彫った石仏が祀られているそうです。


伝承地:京丹波町仏主・長老ヶ岳


依遅ヶ尾の大蛇

依遅ヶ尾の大蛇 (いちがおのだいじゃ)


昔、依遅ヶ尾の山に大蛇が棲んでいた。
ある時、大蛇は斎神社の神姫に一目惚れしたが、神社の神威に打たれ、どうしても境内に入れずにいた。
祭神の天照大神は大蛇を哀れみ、「二百十日後の午後二時に斎神社の御旅所へ行けば恋を叶えてやる」と告げた。
更に神姫にも、「二百十日後の午後二時頃、とても良いことがあるので斉神社の御旅所へ行くように」という夢を見せた。
そして二百十日後の約束の日、神姫は夢のお告げに従い、御旅所に籠って祝詞を上げていた。
ところが午後一時になった頃、すさまじい大雨が降り注ぎ、瞬く間に付近の田畑は水の中に沈んでしまった。
御旅所は高い位置にあったので水没を免れたが、神姫は帰ることが出来ず祝詞を唱え続けた。
そして午後二時になり、依遅ヶ尾から大蛇が黒雲に乗って神姫に会いに来た。
ところがまたしても斎神社の神威に打たれてしまい、神姫に近づくことが出来ず立岩の沖に落下した。
この時、海のそばに住む人々は、嵐の中から神姫を吸いつけるように睨む大蛇の眼光を目撃したという。
こうして大蛇の恋は遂げられないまま、それから何千年もの間、二百十日(*)の午後二時になると、大蛇は依遅ヶ尾から黒雲に乗って立岩の沖へ現れ続けた。
だが大蛇も年を取り、間違えて二、三日早く現れたり、逆に四、五日遅れて来たりするようになった。
近年にも、二百十日に立岩の沖から陸を睨む大蛇の眼光を見た人があったという。

『丹後の民話 第三集 -ふるさとのむかしばなし-』「依遅ヶ尾の大蛇と斎神社の神姫の恋」より


(*)二百十日…立春の日から数えて二百十日目の日(九月一日頃)で、この日は台風が来る厄日とされ風害を防ぐための風習(風祭)が行われていた。

神様が神社の神威バリアーを解いてくれなかったのか、それとも神姫が祝詞を唱えていたせいで入れなかったのか……何にせよ大蛇が不憫。
ちなみに斎神社(斎宮神社)は依遅ヶ尾山の西麓にある竹野神社の摂社のことで、青葉山の土蜘蛛・陸耳御笠を征伐した日子坐王命や開化天皇の妻・竹野媛命を祀っています。
丹後の古地誌『丹後旧事記』には、「昔、依遅神社に棲む霊蛇が竹野神社の神女を取っていたので金丸(麻呂子親王?)という者が退治した。また風土記(『丹後国風土記』?)曰く、竹野神社の斎女が初潮を迎えると依遅ヶ尾の山に黒雲がかかり、三頭五尾の大蛇が現れ斎女を睨みつける。それを限りとして斎女は郷里に帰らなければならなかった」という話があります。
また竹野神社には、「天下に凶徒がはびこる時は社殿が鳴動し、宮中の神箭がことごとく飛び出して海の中に入る」という言い伝えがあるそうです。(『神社啓蒙』)

竹野神社の秘祭


伝承地:京丹後市丹後町宮・竹野神社


日蓮上人の像

日蓮上人の像 (にちれんしょうにんのぞう)


昔、丹波国黒田村に日蓮上人の像があった。
ある時、村に熱病が流行し多くの死者が出たため、人々は像の祟りだと考え、櫃に入れて山中に捨てた。
それから長い年月が経ち、像のことを知る者もいなくなったが、ある時、山中から経文を読む声が聞こえてきた。
村人は不思議に思い、山へ入って声の出所を辿ったところ、日蓮上人の像を発見した。
早速生福寺(聖福寺?)という寺に安置したが、その後、宇津宮心覚という者が像を奪い取り、京の市中で売り飛ばした。
それを見た本満寺(京都市上京区)の日重上人は急いで像を買い取り、同寺に安置したという。
また一説には、元三大師(良源)の像とも言われている。

『都名所図会』巻一「廣布山本満寺」より


黒田村は現・丹波市氷上町黒田、丹波篠山市黒田、京都市右京区京北の三ヶ所にあったことが確認出来ますが、本文の舞台がどの黒田村を指しているのかは不明です。
『都名所図会』の約三十年前に刊行された『新著聞集』に本満寺の日蓮上人像に関する話があり、「上人像は北山芹生の里の土中から見つかった」と書かれています。
そして像が発見された北山芹生の里は現・右京区京北芹生町のことで、この辺りは黒田村に含まれていました。
このことから、本文の黒田村=京都市右京区京北地域の黒田村説が有力っぽいです。


伝承地:丹波のどこか(京都市右京区京北芹生町?)

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