撞かずの鐘 (つかずのかね)


慶長十四年(1609)頃の話である。
成相寺で梵鐘を造ることになり、近隣住民から材料の寄付を募り鋳造したが、一度、二度と失敗に終わった。
そして三度目の寄付を求めた時、ある一軒だけ寄進につかない家があった。
その家の女房は「寺に寄付するようなものは何一つない。子供なら沢山いるので持って行け」と、抱いていた赤子を差し出してからかったという。
仕方なくこの家からの寄付は諦め、集まった材料で鐘を鋳造することにした。
そして多くの見物人が集まる中、三度目の鋳造が始まった。寄付を断った例の女房も赤子を抱えて見に来ていた。
作業は進み、熱した銅を鋳型に流し込もうとした時、女房が誤って赤子を火炉の中に落としてしまった。赤子は一瞬の内に溶けてなくなった。
こうして、赤子を飲み込んだ鐘は出来上がった。
だが、櫓に吊し撞いてみると、撞木が鐘に当たると同時に、撞木の先に赤子の姿が浮かび上がった。
そして鐘の音に混じって赤子の泣き声が響き渡り、それを聞いた麓の村々の赤子たちが一斉に泣き出したという。
人々は気味悪がり、やがてこの鐘を撞くことを止めた。
以後、この鐘は「撞かずの鐘」と呼ばれるようになったという。

また、大筋の流れは同じだが細部が異なる話も伝えられている。

昔、成相寺で梵鐘を造ることになり、丹後・丹波・但馬から寄付を募った。
集まった寄付金を元に鐘は造られたが、何故か赤子の形をした穴が空いてしまう。
次は形を小さくして造ってみたが、また同じサイズの赤子形の穴が空く。何度やってみても同じだった。
不思議に思った住職が寄付を集めた者たちに尋ねると、一人の男が丹波の村を訪れた時の話をした。
男は村中に寄付を募ったが、ある家の女房は「子供ならいくらでもくれてやるが、金は一文もない」と言って寄付を断ったのだという。
「それが原因で鐘が完成しないのだ」と、逸った若者たちがその村へ赴き、泣き叫ぶ女房から赤子を奪って帰った。
そして残酷にも赤子を金と共に溶かし、再び鐘を鋳造した。すると、今度は立派な鐘が出来上がった。
だが、撞いてみると鐘の音は鳴らず、代わりに「オギャアオギャア」と赤子の泣く声が響いた。
その泣き声を聞いた赤子の両親は、悲しみのあまり二匹の大蛇に変化し、鐘に身体をぐるぐると巻き付けてこれ以上打たさないようにしたという。

『旅と伝説』1巻1号「天の橋立にて」
『俚俗と民譚』1巻6号「打たれぬ鐘」
『みやづの昔話 -北部編-』「成相山の鐘」
『成相寺 パンフレット』 より
他多数


宮津の成相寺の伝承で、実際の“撞かずの鐘”も現存しています。
結構な数の伝承が残されていますが、今回は最も多いパターンの話と、両親が大蛇になるという一風変わったパターンの二つを紹介しました。
ちなみに撞かずの鐘伝承は香川県や、日本を飛び出して朝鮮半島の方にも同様の話が残されているようです。ワールドワイド。
一応あらすじを下に載せておきますので、よかったらどうぞ。

●香川県版“撞かずの鐘”(『旅と伝説』13巻4号「讃岐伝説画集 其の二」)
ある村で鐘を鋳造する際、無理矢理人柱にした子供を一緒に溶かして造る。出来た鐘の音は哀愁が漂い、村中の子供が泣き出して止まらない。
溶かした子供と狂死にした親の怨念だと、鐘を川の畔に埋めた。

●朝鮮半島版“撞かずの鐘”(『旅と伝説』14巻8号「平壌付近の伝説」)
ある時代の王が鐘を造るため鉄を集めさせるが、ある家の女房に「鉄はないが、子供なら差し出せる」と断られる。仕方なく他で必要量を満たし鋳造したが、何度鋳てもひび割れて音が出ない。
調べた結果、件の女房が原因と判ったので、子供を連行し鉄と共に溶かして造ると立派な鐘が出来上がった。
鐘は良い音色を出したが、響きの最後に「エンマヘルレ(母の舌のせいで)」という声が聞こえた。以降、鐘を打つ者はいなくなった。

鐘楼
成相寺“撞かずの鐘”の鐘楼。

鐘は見えず
鐘本体は見えませんでした。


*追記
京都市にも“撞かずの鐘”伝承がありましたので、簡単に紹介します。
●京都市版“撞かずの鐘”(『京の怪談』)
昔、西陣の織物屋に仲の悪い丁稚と織子がいて、二人は「寺は夕方にいくつ鐘を鳴らすか」という賭けをした。
丁稚は寺の者に協力を求め、その日だけ撞く回数を変えてもらい賭けに勝利した。賭けに負けた織子は悔しさのあまり、寺の鐘楼で首吊り自殺をしてしまった。
以来、夕方に鐘を撞こうとすると恨めしそうな表情の娘が現れるようになったため、鐘を撞かなくなったという。

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京都市上京区・報恩寺の撞かずの鐘。今は大晦日だけ撞くそうです。