白装束の大女 (しろしょうぞくのおおおんな)


元禄十五年(1702)、上宮津村で疫病が流行り、多くの人が死んだ。
村人たちは疫病退散を願う百万遍念仏を唱え、その甲斐もあってか病は次第に治まり始めた。
そして正月の七日、治之助という村人が夜道を歩いている途中、大きな松の下に身長一丈(約3m)余りの白装束の女が立っていた。
「話しても信じてもらえないだろう」と、治之助はこの大女のことを誰にも言わないでいたが、程なくして震えが来て寝込んでしまった。
それから快復してはまた寝込むということを繰り返し、熱に浮かされて様々なことを口走りるようになった。
治之助は「私はこの地のかつての城主、小倉播磨守(丹後守護職・一色氏の家臣)に仕えていた数馬という女だ。だが播磨守は讒言を信じ、元亀三年(1572)正月十七日に私を惨殺した。その怨みを天に訴え、播磨守と讒言した者の命を奪ったが、未だ成仏出来ず百三十年以上苦しんでいる。弔ってもらえれば苦しみから逃れられると思い、夜は人に、昼は獣に姿を変えたが効果はなかった。かくなる上は念仏の功徳を以て無念を晴らそうと、加佐郡から疫神を呼んで村に疫病を流行らせ百万遍念仏を行わせた。どうか来る二月十七日に数馬祭と名付けて弔ってほしい。そうすれば村の守り神となって疫病を防ごう。だが断れば災難が降りかかるであろう」と語った。
村人たちは「大きな祭は出来ないが、祠を建てて祀るので早々に疫神を連れて出て行ってくれ」と伝えた。
「疫神は七人いるのですぐには出て行かないが、次第に帰っていくだろう。だが病人の命に問題はない。私の願いを頼んだ」
そう言うと部屋中に雷のような音が鳴り響き、治之助は正気に戻った。
治之助は「白装束を着た一丈もある大女に胸を絞められて突き飛ばされたが、正気に戻ることが出来た」と語った。
その後、村人たちは二月十七日に施餓鬼を修し、山の麓に小さな社を建て、数馬祭を行ったという。

『元禄宝永珍話 巻二』より


自ら病を広めて「疫病を治めてほしかったら自分を祀れ。嫌なら厄災を起こすぞ」と持ちかけるやり口、なかなかひどい。


伝承地:宮津市喜多



(2022/12/10 本文修正)