赤子を舐める女 / 虚空の声 (あかごをなめるおんな / こくうのこえ)


昔、丹波猿楽師の男が臨月の妻と子供、弟子を連れて二十人程で京都へ向かっていた。
だが途中の山の中で日が暮れてしまったため、そこで夜を明かすことにした。
そして、その夜に子供が生まれた。猿楽師たちは喜びつつ夜明けを待った。
やがて薄らと夜が明けてきた頃、二十歳程の女が一同のそばを通りかかった。
猿楽師は彼女を呼び止め「どなたかは存じませんが、良い時に通りかかりました。この子供を抱いていてくれませんか」と頼み、女に赤子を任せて仮眠することにした。
だが、一同が寝静まると、女は抱いている赤子の頭をそろそろと舐め始めた。
目を覚ました猿楽師が見つめる中、女は赤子の全身を舐め尽くし、消してしまった。
驚いた猿楽師は他の者を起こしたが、その瞬間、何かわからないものが妻や弟子たちを掴み、虚空に飛び上がって行った。
猿楽師だけが残されると、虚空から「そこに残った男も捕まえろ」というしわがれた声が響いた。
しかし女が「この男は脇差を差しているので捕まえられない」と答えると、再び虚空から「捕まえられないなら見逃してやれ」という声がした。
すると女はどこかへ消え失せ、虚空の声も聞こえなくなった。猿楽師だけが一人、残されてしまった。
程なくして夜が明けたが、不思議なことに、時刻は午後四時を回っていたという。

『諸国百物語』「丹波申楽へんげの物につかまれし事」より