浜源吾の亡霊 (はまげんごのぼうれい)
岩江戸の松山城(岩見城)の城代・浜源吾は、領民に非道な振る舞いをしていたことから「浜の殺屋」とも言われていた。
農民や地侍はその厳しい仕打ちに耐えかね、天正五年(1577)、松山城へ攻め込んで源吾を殺害した。
源吾の首は城近くの老松の根元に、胴体はそこから500m程離れた小山の麓に葬られ、首を埋めた所は「源吾塚」と呼ばれるようになった。
だが首と胴体を別々に埋めた恨みからか、夜な夜な源吾の亡霊が徘徊するようになり、また老松に触れると祟りが起こるようになった。
だが首と胴体を別々に埋めた恨みからか、夜な夜な源吾の亡霊が徘徊するようになり、また老松に触れると祟りが起こるようになった。
そして村の惣代になった者が三代続いて変死を遂げたため、村人たちは源吾の亡霊の仕業だと噂し、誰も役に就かなくなってしまった。
それ以来、惣代に就任した村人は源吾塚に酒を献じて「源吾様への所業は遠い昔の先祖のしたことなのでお許し下さい」と謝罪し、無事惣代を勤められるように念じる習わしが始まったという。
『美山伝承の旅』「岩見城物語」より
『北桑田郡誌』によると、浜源吾は江州高島郡(滋賀県北西部)を治めていた松平氏の家臣で、岩江戸(美山町三埜)に築かれた松山城の留守居役を任されていたそうです。
ですが天正三年に主君の松平土佐守が戦死してしまい、その後、松山城は農民一揆で落城、浜源吾は土佐守の遺児と共に自害したと伝えられています。
伝承地:南丹市美山町三埜