狐の嫁はん (きつねのよめはん)
昔、佐仲峠の麓に「市ッさん」という酒好きの男が住んでいた。
市ッさんは佐仲峠の途中にある鏡峠を越えて三井ノ庄(丹波市春日町)へ行き、そこで仕入れた道具を売り歩いて得た金で酒を飲むことが生きがいだった。
そのため市ッさんには嫁がおらず、また峠でよく狐に騙されていたので、人々から変人扱いされていた。
ある日、市ッさんは酒を買い足そうと思い、最後の酒を徳利に入れて鏡峠を歩いていた。
すると、矢で肩を射貫かれた狐が草むらにうずくまっていたので、市ッさんは矢を引き抜き、徳利の酒で傷口を洗ってやった。
それからしばらくして、市ッさんの元に綺麗な女が嫁いで来た。
嫁は働き者で、毎朝早くに家を出ては、三井ノ庄まで仕入れに行っていた。
そして市ッさんは嫁の仕入れた道具を売り歩き、相変わらず酒浸りの生活を続けていた。
ある日の早朝、村人が三井ノ庄へ向かっていると、前を歩く市ッさんの嫁を見かけた。
ところが、鏡峠の入口で急に姿を消したので、村人は急ぎ足で追いかけたが、どこにも見当たらなかった。
だが村人が三井ノ庄に着くと、既に嫁は仕入れを済ませ、別の村へ移動するところだった。
このように、市ッさんの嫁と鏡峠で出会ったことがなかったので、人々は不思議だと噂していた。
ある晩秋の夜、市ッさんが家で酒を飲んでいると、村人が駆け込んで来て強引に鏡峠へ連れて行った。
そして村人が指し示した先を見ると、岩の前に市ッさんの嫁が座っており、その周りを沢山の狐が取り囲んで化粧の手伝いをしていた。
村人は「谷に沢山の狐火が見えたので調べに来たら、お前の嫁がいたんだ」と説明した。
ところが、市ッさんは月の下で化粧をする嫁の美しさに見惚れてしまい、思わず「おーい」と声をかけた。
振り向いた嫁は市ッさんを見て驚き、後ずさりして何かを訴えるように唇を震わせたが、その言葉は聞き取れなかった。
すると、今まで綺麗だった嫁の目は落ちくぼみ、病人のような青白い顔になり、岩の後ろの方へ吸い込まれて消えてしまった。
それ以来、嫁が消えた岩に一筋の割れ目が入り、鏡のように光り始めたという。
『丹波』創刊号「鏡峠の鏡岩 -狐の嫁はんをもらった市ッさん-」より
村人が市ッさんを峠に連れて行って嫁の正体を暴かなければ、二人は何やかんや幸せに暮らせていたんじゃなかろうか……。
伝承地:丹波篠山市小坂、丹波市春日町中山(鏡峠は廃道)