賀良利平の祟り (からりへいのたたり)


安永の頃、布袋野村に賀良利平という男がいた。
利平は素行が悪く、いつも諍いを求めて村の安寧を破り、風紀を乱して人々を困らせていた。
ある日、利平は庄屋の宴会に招かれたが、些細なことから中道重郎右衛門という男と口論になり、凶器を持ち出して脅迫する騒ぎを起こした。
遂にたまりかねた庄屋は利平殺害を決心し、代官の許しを得た後、竹槍で武装した村人たちを利平の家へ送り込んだ。
これには利平も困り果て、畑村の金剛寺に逃げ込んで院主に助命を嘆願した。
そこで院主に不心得を諭され出家することを勧められたが、利平は仏門に入ることを好まず、寺を辞して川沿いに自宅へ帰ろうとした。
だがその途中で村人に見つかり、遂に殺されてしまった。

ところが利平の死後、村に数々の祟りが起こった。
庄屋が年貢米を江戸に届けた時、日本橋の群衆の中に死んだはずの利平の姿を見つけた。
庄屋は利平の怨みの籠った顔に怯え、村に帰ってから病床に伏し、熱病に苦しみながら死亡した。
また重郎右衛門や利平殺害に加わった人々も次々と不運に見舞われ、更には疫痢の流行や火災が立て続けに起こったため、村人たちは利平の祟りだと言って恐怖に陥った。
そこで村人たちは利平の魂を慰めるため、氏神(河上三神社?)の境内に正掲羅大明神として祀り、殺害した場所に碑を建て懇ろに弔ったという。

『熊野郡伝説史』「賀良利平遺跡(川上村)」より


江戸時代、布袋野村は幕府直轄の天領だったので、毎年年貢を江戸まで運んでいたそうです。大仕事ですね。
ちなみに『京丹後市の民俗』には、「利兵衛という素行の悪い男が宴会時に暴れ出したので竹槍で殺害し、その後供養のために石塔を建てた」とあり、本文の利平のように死んでから村に祟りを起こしたというくだりは書かれていません。名前も微妙に違っています。

賀良利平の碑
賀良利平の碑。
久美浜町布袋野から同町市野々へ向かう道端にあります。
『熊野郡伝説史』によると、この碑が建てられたのは安永八年(1779)の四月と伝えられています。
苔むしていてはっきりとは読めませんが、右側に「安永~」と年号らしき文字列があり、真ん中には「南無阿弥陀仏」と名号が刻まれています。


伝承地:京丹後市久美浜町布袋野