丹波・丹後の妖怪あつめ

京都府北部(丹波・丹後地域)の怪異妖怪伝承を紹介するブログです。

舞鶴市

蛇切岩

蛇切岩 (じゃきりいわ)


昔、多門院の黒部におまつとおしもという美しい姉妹がいた。
二人はいつも仲良く与保呂の奥山へ草刈りに行っていたが、ある日、姉のおまつは山の池の畔で美しい青年と出会い恋に落ちた。
それからおまつは妹のおしもを置いて一人で奥山へ行くようになり、青年と逢瀬を重ねた末に契りを結んでしまった。
その頃、おまつに縁談が持ち上がっていたが、彼女は結婚を強いる両親を恨めしく思い返事を濁していた。
ある日、どうしてもおしもと奥山へ行かなければならなくなり、二人で池に向かったところ、青年は妹の姿を見るや驚いて姿を消した。
するとおまつは「私は今日限り家に帰らない」と言い出し、おしもの制止を振り切って池に飛び込んだ。
そしてにわかに雨が降り出したかと思うと、池一杯になった大蛇が忽然と姿を現し、おしもを見守ってから水底へ沈んだ。
姉妹の父親はおしもから一部始終を聞き、急いで池へ駆け付けると、泣きながらおまつの名前を呼んだ。
すると水中から大蛇が現れ、父親を恨めしそうに見ながら再び水底へ姿を消した。

その後、池の主となった大蛇は付近の村を脅かすようになった。
与保呂村の人々は大蛇を退治する他ないと考え、モグサで大きな牛形を作り、中に火を点けて池へ投げ込んだ。
好餌とばかりに牛形を呑み込んだ大蛇は、腹の中で燃え広がる火にもがき苦しみ、のたうち回った末に死亡した。
すると同時に激しい雨が降り出し、やがて池の水が溢れ洪水となった。
この洪水で大蛇の死体は押し流され、下手にあった岩に当たって三つに切断された。
その後、村人たちはおまつの祟りを恐れ、三断された大蛇の頭部を日尾池姫神社に、胴体をどう田の宮に、尾を大森神社に祀った。
以来、与保呂村の神社の境内と日尾池姫神社の宮山の一部だけ、松の木が生えなくなったという。
大蛇を三断した岩は“蛇切岩”と呼ばれており、割れ目には天候によって色を変える白い姫蛇が棲んでいるという。

『舞鶴市史 各説編』「蛇切岩(与保呂)」より


おまつと恋仲になった美しい青年は大蛇の化身だったとも言われています。(『森と神々の民俗』)
おまつが大蛇になった後、この青年大蛇はどこへ行ってしまったんでしょう。

蛇切岩
大蛇を三断した蛇切岩は与保呂地区の東の山中にあります。
岩は広場から一段下がった川の畔に鎮座しており、注連縄が張られていました。かなり大きい。
この岩に棲むという姫蛇は見当たりませんでした。

蛇切神社
蛇切岩の上の広場には小さな社が建てられていました。
近くの案内板によると「蛇切岩神社」という名前の神社だそうです。
由緒書きがなかったので詳細はわかりませんが、名前から考えるに蛇切岩を御神体として祀っているんでしょうか。

蛇頭松姫大神
与保呂の日尾池姫神社の
本殿脇には「蛇頭大松大明神」という、大蛇の頭を祀る小さな祠があります。
おまつの祟りなのか、境内には松が一本も生えないそうです。

どうたの宮
堂田神社(どうたの宮)。
与保呂の西、八反田南町の民家と民家の狭間にある小さな神社で、大蛇の胴体を祀っています。
何故か鳥居も社も道路に背を向けた形で建てられています。

大森神社
彌伽宜神社(大森神社)。
東舞鶴の中心部にある神社で、大蛇の尾を祀っています。
また神社の奥に杜清水という綺麗な水が湧き出す泉があり、国の一大事の際にはこの一隅から白い水が出ると言い伝えられています。

舞鶴の三断された大蛇たち。


伝承地:舞鶴市与保呂


鬼住池の大蛇

鬼住池の大蛇 (きすみいけのだいじゃ)


岸谷の人々は、舞鶴と綾部の境にある幾津見峠を「鬼住峠」と呼んでいる。
昔、鬼住峠と弥仙山との間の尾根付近に「鬼住池」という池があり、そこに棲む大蛇が人々を呑み込み危害を加えていた。
そこで岸谷村の五衛門という男が毎日弓矢の練習をして腕を磨き、遂に大蛇を退治した。
そして大蛇は三つに切られ、布敷の池姫神社、今田の倭文神社、城屋の雨引神社にそれぞれ祀られた。
だが大蛇の祟りにより、五衛門の家は七代にわたり不幸が続いたという。

『まいづる田辺道しるべ』「幾津見峠(鬼住峠、木住峠)」より


この他にも「岸谷の五右ヱ門という男が菖蒲の葉を矢羽根にした弓矢で鬼住池の大蛇の片目を射貫いて退治した。だがその後大蛇の祟りを受け、五衛門の家には七代続けて片目の子供が生まれたので、大蛇の頭を池姫神社に祀った」という、本文の鬼住池の大蛇とよく似た話があります。(『森の神々と民俗』)

三断した大蛇を池姫神社や雨引神社に祀るという展開は、以前に紹介した“五老の滝の大蛇”や“日浦が谷の大蛇”の伝説とよく似ていますね。
舞鶴地方は退治した大蛇を三分割して祀る伝説が多い気がする。

ちなみに鬼住峠の由来については、ある商人が幾津見峠で何者かに殺され死体がうち捨てられていたから、幾津見峠に山賊が出没し通行人を苦しめていたから、などの伝説から幾津見峠を「鬼が住む峠」=「鬼住峠」と呼ぶようになったそうです。(綾部側では「木住峠」と呼んでいるが由来は不明)
峠一帯の山番地も「鬼住」という地名なんだとか。


伝承地:舞鶴市岸谷(鬼住池は現存していない)


龍灯杉

龍灯杉 (りゅうとうすぎ)


慶長五年(1600)九月の夕方、柳原の阿良須(一宮)神社で原因不明の火事が起こった。
するとその夜、宮山にある老杉の上枝から長く光明が放たれた。
これは龍祭りの神(?)が一宮大神を守護しているのだと考え、老杉を“龍灯杉”と呼んで敬った。
節分の夕方に火の光が灯ったこともあり、人々は神の成せる業だと言い合っていた。
だが、龍灯杉は明治三年(1870)八月七日に起こった暴風雨で倒れたため、伐採されてしまったという。

『舞鶴の民話 第四集』「龍燈杉(小倉)」より


*参考資料は「龍灯(燈)」「龍頭」と表記ゆれがあったので、当ブログでは「龍灯」に統一しました。

慶長五年の火事の原因は不明とされていますが、『加佐郡誌』に「慶長五年、福知山城主・小野木重勝が丹後田辺城を包囲した際、阿良須神社に火をかけた」という記録があり、このことから神社が燃えた原因は兵火によるものだったと考えられます。
その後、阿良須神社は田辺城主・細川忠興によって柳原から遷宮され、現在地の小倉に再建されました。

また、阿良須神社が柳原から小倉へ遷宮された時、境内にあった「龍灯の池」という池も一緒に移されました。
長雨や炎天の時にこの池に祈れば神様(一宮大神)がすぐに応じ、雨は止み災難は去るとして厚く信仰されていたそうです。

阿良須神社
小倉の阿良須神社。
元々阿良須神社があった「柳原」は、今の舞鶴市田中(小倉の北)の辺りで、丹波道主命が青葉山の土蜘蛛・陸耳御笠を征伐した時、神奈備の浅香の森(柳原の森)に豊受大神を祀ったことが創始とされています。

阿良須神社本殿
阿良須神社本殿。
境内をぐるりと回ってみましたが、龍灯の池らしきものは見つけられませんでした。
涸れてしまったんでしょうか。

龍灯が灯る木


伝承地:舞鶴市田中(小倉)


エトンビキ

エトンビキ


昔、上殿山に城があった頃、夜になると遠国から鬼が来て、城の裏手にある隅谷という谷を登って侵入していた。
そこで城主の稲富之守は、上殿の人々に「藁で大蛇を作り隅谷口を防衛せよ」という御触れを出した。
この藁の大蛇が決め手となり、それから鬼は来なくなったという。
そして人々は鬼を追い返す程の力を持つ藁の大蛇に村の災厄を祓ってもらおうと考え、“エトンビキ”の行事を始めたという。

『郷土史「我が郷土」池内』「エトンビキ」より


エトンビキとは、子供たちが藁で作った大蛇(龍)を担いで各戸を回り魔除けや五穀豊穣を祈る舞鶴の民俗行事で、上殿の他、別所・上根・大波上地区などで毎年九月一日に行われています。
上殿地区では、十二支の中でも飛び抜けて獰猛で力強い龍(辰)に災厄を追い出してもらうための行事で、最初は村人全員で行っていましたが、いつしか子供の行事に移行したと言い伝えられています。
「干支を引く」ことから「エトンビキ」と呼ばれるようになったとも言われていますが、はっきりとした語源はわかっていません。(上根地区では「アクマバライ」と呼ぶ)
別所地区では「エントンビキ」と呼ばれており、子供たちが12,3mもの藁の大蛇を「エントンビキじゃ、ワッショイワッショイ」と掛け声を上げながら引き、各家を訪れてその家の幼児や老人の頭を大蛇で噛んで健康長寿を祈った後、裏山にある椎の巨木に巻きつけて地区の守護とし、行事を終了します。
ちなみに別所地区のエントンビキは、「昔、大蛇が里を襲った時に逃げ惑う娘たちを土蔵や便所に隠した」という故事により、この行事を行っているそうです。(『森の神々と民俗』)



伝承地:舞鶴市今田(上殿)他


朝寝の神様

朝寝の神様 (あさねのかみさま)


佐武ヶ岳の朝禰神社の神は、愛宕山の朝代神社の姉に当たる神と言われている。
ある時、朝禰神社の姉神と朝代神社の妹神は、互いの氏子の領分を歩いて決めることにした。
その当日、妹神は朝早く起きて歩き回ったので、田辺(舞鶴)のほとんどの地を氏子にすることが出来た。
だが姉神は朝寝坊をしてしまい、倉谷一円しか回れなかった。
このことから、朝禰神社を“朝寝の神様”と呼ぶようになった。

元々、朝禰神社は倉谷の北野神社の下田にあったが、遷座を繰り返した末、享保十九年(1734)に佐武ヶ岳の山中に移祀された。
だが平地から山中に移したことで神の怒りを買い、腹痛に罹る村人が続発した。
そこで神の怒りを鎮めるため、村人が毎晩交替で常夜灯を灯すことにした。
この習俗は戦前まで続いていたという。

『舞鶴ふるさとのやしろ』「朝禰神社」より


朝禰神社
朝禰神社は倉谷の佐武ヶ岳に祀られています。
山中の参道をずんずん進むと神社に辿り着きます。

朝禰神社境内
朝禰神社境内。
スリーペアの狛犬がお出迎えしてくれます。
山の中なので人気はなく、境内はとても静かでした。

ちなみに亀岡市には、興能神社と小幡神社の使いの亀と馬が神社の領地を取り合ったという伝説があります。
ある時、亀と馬は曽我部村をグルッと一周して、先に通った場所を領地に出来るというルールで競争しました。
ですが馬は油断して居眠りをし、その隙に亀がほとんどの領地を回りました。
そして興能神社は多くの領地をゲットし、一方小幡神社は穴太という所しか領地を得られなかった、という内容の伝説です。(『丹波の伝承』)
イソップ寓話の「兎と亀」みたい。


伝承地:舞鶴市倉谷


日浦が谷の大蛇

日浦が谷の大蛇 (ひうらがだにのだいじゃ)


弘治年間(1555~1558)、女布に一色氏家臣の森脇宗坡(そうは)という武士がいた。
宗坡の娘は何鹿(綾部市)に嫁いでいたが、ある時、実家へ戻る途中で城屋の日浦が谷に棲む大蛇に喰い殺された。
その知らせを聞いた宗坡は怒り狂い、日浦が谷へ駆けつけると弓矢で大蛇を射た。
ところが大蛇は爛々と目を怒らせ、毒の炎を吐きながら宗坡に向けて押し寄せて来た。
すると宗坡の足元に暴風が起こり、雷が頭上をかすめ、豪雨が降り注ぎ、天も地も闇に包まれ、谷は激しく鳴動した。
その凄まじさに、宗坡はやむを得ず隠迫という谷間に身を隠し、追ってきた大蛇を射殺した。
そして大蛇の死体を三つに斬ったところ、天変地異は治まったという。
その後、大蛇の頭部は城屋の雨引神社、胴体は野村寺の中の森神社、尾は由里の尾の森神社に祀られた。
以来、雨引神社は雨乞いの神として信仰を集め、宗坡が大蛇を倒した旧暦七月十四日には、炎を吐く大蛇にちなんだ「揚松明」という祭が行われるている。

『加佐郡誌(全)』「城屋の揚松明(舞鶴による説)」より


参考にした『加佐郡誌』では「森脇宗坡が大蛇を退治し、死体を三つに斬った」と書かれていますが、『まいづる田辺道しるべ』という本では、「昔、城屋に大きなマカニ(真蟹)が棲んでいた。森脇宗坡の娘が日浦が谷で大蛇に喰われ、怒った宗坡はただちに大蛇を退治した。その死体を三つに斬ったのがこの大きなマカニだった」とあります。
また城屋には「マカベ」という小字があり、これは「マカニ」が訛ったものではないかと考えられています。
大蛇の切断を手伝った謎のでかいカニ……かなり興味深い内容ですが、これ以上の情報が載っていないので詳しいことはわかりません。残念。
ちなみに『森と神々の民俗』という本では、森脇宗坡は一色氏ではなく京極氏の家臣で、その娘は日浦が谷のオロチに魅入られて気が狂ったとあり、『加佐郡誌』とは微妙に違う内容になっています。


雨引神社
城屋の雨引神社。
切断した大蛇の頭が祀られていて、地元では「蛇神(じゃがみ)さん」と呼ばれています。
この神社では毎年八月十四日の夜、高さ約16mの大松明に手持ちサイズの松明を投げ上げて火を点ける「城屋の揚松明」という行事が行われています。


伝承地:舞鶴市城屋


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