丹波・丹後の妖怪あつめ

京都府北部(丹波・丹後地域)の怪異妖怪伝承を紹介するブログです。

宮津市

石龍

石龍 (せきりゅう)


石龍(石竜)は岩石の間に棲む蛇のような生き物で、福知山市・与謝野町・宮津市に伝えられています。

●福知山市
昔、三岳村一ノ宮竹石の山奥に大岩があり、そこに石龍という蛇体の龍神が棲んでいた。
石龍は霊験もあらたかで、明治四十一、二年(1908,1909)頃は京阪神方面からも参詣者が訪れ、その数は谷を埋め尽くす程だったという。
石龍に悪戯をすれば腹痛になる、足腰が立たなくなる、目が見えなくなるなどの罰が当たるが、大岩に参って謝罪すればすぐに治ったという。
今も一ノ宮では石龍講が行われており、初夏から秋にかけて大岩の割れ目から石龍の姿を見ることが出来るという。(『福知山の民話と昔ばなし集』)

●与謝野町
幾地の蔵割口に巨岩があり、そこに石竜という竜神が棲んでいた。
だが、いつの間にか巨岩は削り崩されてしまったという。(『野田川町誌』)

●宮津市
宮津の小田村に石龍というものがいる。
形は蛇に似て、長さは30cmに満たず、岩の隙間に棲んでいるという。
気温の高い日は時々姿を現し、老いることもなく姿も変わらない。
古老曰く、石龍は百年以上生きているという。
何を食べているのかわからず、水に沈むもの、火に入るもの、空を飛ぶもの、土に潜るもの、木の内に棲むもの、果ては人の腹の中に生じるものまでいるという。(『丹哥府志』)

今福の滝山の奥に二つに重なった大石があり、石の間に石竜様という大蛇が棲んでいる。
石竜様は時々通行人に目撃されていたが、その姿を見ることは不吉の前兆とされ、姿を見た者は急な大雨に降られたり、家族に不幸があったりしたという。
そのため、誰も大石に近づかなった。(『宮津の民話 第一集』)

松尾から木子へ向かう道(現在の丹後縦貫林道)の途中に大きな岩がある。
その岩に小さな穴が開いており、そこに龍神の祠が祀られている。
龍神は雨の神とされ、ある青年が雨乞いを行った時、岩の穴から白い小さな蛇の腹が見えたという。
ある時、木子の大松金左右門という医者が「松尾の人々は蛇を神様だと言っているが馬鹿なことだ」と言って、木の枝で岩の穴を弄んだ。
すると帰宅途中に激しい腹痛を起こし、苦しむことになった。
後日、金左右門は岩に向かって謝罪し、それからは絶対に岩の穴を弄ばなかったという。(『私たちの小さな宮津・松尾史』)

『福知山の民話と昔ばなし集』「竹石の石龍さん」
『野田川町誌』「幾地の石竜」
『丹哥府志』「與謝郡 第一 宮津の庄」
『宮津の民話 -ふるさとのむかしばなし- 第一集』「今福の昔話」
『私たちの小さな宮津・松尾史』「石龍さん」より


京丹後市の石龍


伝承地:福知山市一ノ宮/与謝野町幾地/宮津市小田、今福、松尾


大蛇の復讐

大蛇の復讐 (だいじゃのふくしゅう)


昔、ある村の外れに猟師が住んでいた。
猟師は何度結婚しても嫁が早死にし、これまでに六人の嫁に先立たれていた。
ある日、美しい娘が猟師の家を訪れ、一夜の宿を求めた。
娘はそのまま家に住むようになり、猟師は甲斐甲斐しく働く彼女に嫁になってほしいと思っていた。
それからしばらく経ったある夜、猟師は井戸の水を掻き出すような音で目を覚ました。
井戸では娘が水浴びをしており、水をかぶる度、徐々に恐ろしい大蛇へと姿を変えていった。
猟師は何も見なかったことにして眠ったが、次の夜も娘は同じように水を浴びては徐々に大蛇の姿になっていった。
猟師はその姿を最後まで見られずにいたが、三日目の夜、「今夜は最後まで見てやろう」と考え、寝たふりをして娘の様子を窺っていた。
やがて娘は静かに起き上がると、井戸で水浴びを始め、水を五杯かぶったところで遂に恐ろしい大蛇に姿を変えた。
そして娘はグーッと手を伸ばし、家の中へ逃げ戻ろうとする猟師を捕まえると、「かつてお前は私の母を撃ち殺したので、その復讐に嫁を六人共殺してやった。次はお前を殺そうと思っていたが、正体を見破られてしまい残念だ」と言って、その場に倒れて死んだ。
その後、猟師はこの大蛇を神として祀ったという。

『みやづの昔話 -北部編-』「大蛇の復讐」より


大蛇の復讐に巻き込まれて殺された六人の嫁が不憫…。


伝承地:宮津市松尾


宮津の妖

宮津の妖 (みやづのあやかし)


昔、丹後国宮津の須磨屋忠介という絹商人の家に、源という中年の糸繰り女がいた。
源は成相の近くにある伊称という村の出身で、幼い頃に父を亡くしてからは母の手ひとつで育てられた。
源が三、四歳の頃、伊称の村に巡礼僧が訪れ、昼は物乞いをし、夜は源の家の庭に筵を広げ、門の敷居を枕にして寝起きしていた。
僧は日暮れから朝遅くまで眠るので、夜は外へ出られず、家を訪れる者は遠慮して中へ入らなくなった。
だが源の母は嫌がる素振りも見せず、僧を快くもてなしていた。
ある日、僧は母に「もてなしてくれたお礼をしたいが恩返し出来るようなことがない。ただ、どうやらこの家には度々妖怪が現れているようだ」と言った。
母は僧に対し「この家だけではありません。伊称の村は海にさし出た島先にありますが、向かいの沖に見える中の島から妖しいものが渡って来ては村人を悩ましています。私の夫が早死にしたのもこの物怪の仕業でしょう」と語った。
すると僧は「これまでのご恩返しにこの家を災いから救いたい」と申し出て、火を焚き、水を浴びた後、したためた呪いの札を囲炉裏で焼き上げた。
すると間断なく雷が鳴り響き、激しく降り出した大雨が中の島へ向かったように見えた。
やがて雲が晴れ星の光が見えるようになると、僧は「これでしばらくは家に妖しいものは来ない。だが残念なことに悪鬼を一体逃してしまった。これより二十年後、この家に災いが起こるだろう。その時はこの札を火にくべて焼けば妖怪の根源を絶ち、子孫も繁昌するはずだ」と言って、赤い文字が書かれた鉄の札を母に渡した。
そして僧は旅立ち、二度と帰ることはなかった。

時が経ち、源は二十三、四歳になった。
源は容姿端麗で心優しい性格に育ったため、村人たちから恋い慕われていたが、母は普通の人にはもったいないと思い、嫁がせず大切にしていた。
ある日、大内某という五十歳ばかりの醜い容姿の貴族が物見遊山の帰りに丹後を訪れ、伊称の村に滞在した。
そこで大内某は源に一目惚れし、毎夜宿に母を呼び出しては娘のことを聞き出して都へ連れ帰ろうとしたが、色よい返事を聞けずにいた。
そんな中、大内某はかつて巡礼僧から貰ったという鉄札の話を聞き、母に札を見せてほしいと頼んだ。
母は札を大事にしていたので別に作った偽の札を渡したところ、大内某は急に「源を私にくれ」としつこく言い寄ってきた。
それでも母が断ると大内某は怒り狂い、「家中を捜して娘を見つけ出せ。都へ連れ帰るぞ」と家来に命令し、源を連れ去ろうとした。
母は大内某の非道を嘆くばかりだったが、ふと思い立ち、僧から貰った鉄札を火にくべて焼いた。
すると雷鳴と共に大雨が降り出し、雷が家の向かいの磯に落ちたように見えた。
やがて雨は上がり、夜が明けてから見ると、大内某ら都人は皆、衣服を着た古猿に変わっていた。
この古猿たちの持っていた道具はいずれもこの世の物ではない金銀の類だったので、宮津の成相寺の宝倉に収められたという。

『御伽百物語』「宮津の妖」より


都人に化けた古猿たちは、二十年前に僧が取り逃がした悪鬼だったのでしょうか。


伝承地:宮津のどこか(伊根町?)

変化の玉章

変化の玉章 (へんげのたまずさ)


丹後国宮津藩の藩主・京極氏に美しい娘がいた。
ある春の日、娘は侍女を連れて藩内の小さな島へ行き、珍しい景色を楽しんだり春草を摘んだりして寛いでいた。
するとどこからか錦襴の襟の袖なし羽織を着た高貴な小坊主が現れ、娘に結び文を差し出した。
侍女たちは口々にたしなめたが、小坊主は「これを読めば理解出来ます」と言って強引に文を渡し、たちまち姿を消した。
怪しみつつ文を検めると、その内容は文字も美しい高尚な恋文で、娘に対する想いが綴られていた。
ただ送り主の名は書かれておらず、最後に「この想いを叶えなければ恐ろしい目に遭わせる」と書き添えてあった。
皆はうすら寒い気持ちになり、魔除けの呪文を唱えて娘を守りながら、足早に船に乗り込んで島を後にした。
館へ帰った後、両親に島での出来事を話すと、京極氏は「この館の北の森には古い獣が棲み怪事を起こしていると聞く。島の出来事もこの獣の仕業だろう」と語った。
そして屈強な部下に命じ、北の森に向けて蟇目の矢を射させたところ、森の中からドッと大きな笑い声が響き、射た矢が束ねられて投げ返された。
それを見た人々は「これはどうしようもない」と途方に暮れ、矢を射ることを止めた。

その夜から、娘の周りで怪事が起こり始めた。
ある夜は厠に凄まじい悪臭が立ち籠め、近寄ることも出来ず、どれだけ香を焚いても紛れることはなかった。
またある夜はさらに酷く、大量の汚物が床にうずたかく積まれていた。
この有様に館の人々は困り果て、京極氏は「方違いをすれば怪事も収まるのではないか」と考え、新しい御殿を建て、そこに娘を移し選び抜いた精鋭に警護させた。
更に修験者に休む間もなく祈祷をさせ、加持の僧が厳めしい祭壇を据えたところ、一夜、二夜と何も起こらなかった。
だが人々が安心したのも束の間、やがてまた怪事が起こった。
ある時は三人、または五人の侍女たちの髪の毛がより合わされ、網のように固く組まれることがあったが、誰も結ばれていることに気づかなかったという。
怪事が増すにつれ、侍女たちの退職が相次ぎ、遂に宿直の者すら足りなくなる始末だった。
そんなある日、小枝(ささえ)元斉という儒学者が京極氏に「怪事を収める手段は尽きたように思われますが、一つだけ残されています。成功するかわかりませんが、私にお任せ下されば尽力致します」と進言した。
そして元斉は物忌みをして北の森へ向かうと、うやうやしい態度で弓を射かけた無礼を謝罪し、「京極家は武家なので、霊に娘を取られたと噂されることは後世までの恥になります。娘のことを諦めて下さるならば、代わりにどんな願いでも叶えましょう」と丁寧に頼んだ。
すると森の主と思われる者が角髪(みずら)の童子となって現れ、ニッコリと笑い、「この度はそちらの態度に腹を立て数々の怪事を起こしていたが、そこまで謝るのならば許してやろう。特に願い事はないが『踊り』というものが面白いと聞いているので、それを所望する」と答えた。
元斉は急いで館に戻り、京極氏にその件を申し伝えると、館内は生き返ったように喜びに湧いた。
早速、京極氏は領内に命じて踊り手の男女を集め、更に家臣からも若い男を参加させた。
そして風流を尽くした装いの人々が若狭国の境の「えいけいじ野」という広場に集まり、桟敷を架け渡し、霊の座を設えて清め、二十日余りも面白く舞い踊った。
その間の四、五日程は美しい童子が霊の座に見えていたが、その内に姿を消したので、人々はそこで踊りを止めた。
この踊りが通じたのか、以来、娘の周りで怪事は起こらなくなったという。

『万世百物語』巻一「丹州に変化の玉章 時ならぬ踊興行」より


「娘をくれなきゃ怖い目に遭わすぞ」と匿名の手紙で脅し、拒否されたら嫌がらせをして精神的に追い込むやり口。陰湿だ……。


伝承地:宮津市鶴賀


頭が半分の人形

頭が半分の人形 (あたまがはんぶんのにんぎょう)


世屋の真ん中に小さな祠があり、そこに頭が半分しかない人形が地蔵と共に祀られているという。
昔、ある村人が大雨の中を帰っていたが、途中で足を滑らせ谷底へ落ちてしまった。
村人は妻の夢枕に立って自分の居所を教え、数日後にようやく発見されたが、その死体は頭が半分潰れた無残なものだった。
そこでこの村人の霊を慰め、二度と事故が起きないようにするため、頭が半分の供養人形が作られたのであった。
ところがその後、人形が村人たちの夢枕に立つようになった。
人形が夢枕に立った家では、決まって何事かが起こるため、村人たちは人形がそれを知らせに来ているのだと考えたという。

『京都ミステリーの旅』「頭が半分の不気味な人形」より


伝承地:宮津市上世屋?


八幡宮の御神体

八幡宮の御神体 (はちまんぐうのごしんたい)


昔、須津の北の谷に八幡宮が祀られており、村人はこの谷を八幡谷と呼んでいた。
ある夜、盗人が八幡宮の御神体を自分の村の氏神にしようと考え、盗み出して浜辺から舟で運び出そうとした。
ところがどうやっても舟が動かず、御神体は「須津がええ。須津がええ」と呟いていた。
そこで盗人は「八幡様は戦神だから、行く方向に矢を射れば動くかもしれない」と考え、弓を大きく引き絞り、「南無八幡大菩薩。この舟を向こう岸に動かしたまえ」と言いながら対岸に矢を放った。
すると、御神体の乗った舟はまるで矢に引かれるように走り出し、二度と帰って来なかった。
そのため、八幡谷の八幡宮には御神体がないという。

『須津の民話』「な~む八幡大菩薩」より


この八幡宮は八幡谷(小路山)に祀られていましたが、後に須津地区の西にある大師山の愛宕神社へ移祀されました。
更にその後、
明治八年(1875)に地区中央にある須津彦神社へ移祀され、現在も摂社として境内に祀られています。
御神体は帰って来たんでしょうか。


伝承地:宮津市須津

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