丹波・丹後の妖怪あつめ

京都府北部(丹波・丹後地域)の怪異妖怪伝承を紹介するブログです。

宮津市

畑を荒らす狛犬

畑を荒らす狛犬 (はたけをあらすこまいぬ)


昔、日置村の村人が野菜畑へ収穫に行くと、畑は何者かによって滅茶苦茶に荒らされていた。
村人たちは猿や猪の仕業だと考え罠を仕掛けたが、何も捕まえられず畑は荒らされるばかりだった。
そこで畑荒らしの正体を突き止めるため、村人たちは一晩中畑のそばに隠れて見張ることにした。
すると真夜中を過ぎた頃、村人たちの目の前を何かがものすごい勢いで通り過ぎた。
目を凝らして見ると、山王権現に祀られている二匹の狛犬が、芋を掘り返したり、野菜の上を転げ回ったりして畑を荒らしていた。
村人たちは驚き、翌日、金剛心院の住職に相談したところ、「狛犬に釘を打ちつけて動けなくするしかないだろう」と言われた。
そこで村人たちは住職に祈祷してもらい、二匹の狛犬の喉元に長い釘を打ち込んだ。
それ以来、狛犬が畑を荒らすことはなくなったという。

『日置ものがたり 上のお話~あれこれ~』「釘を打たれた狛犬」より


畑を荒らした阿吽の狛犬は欅製で、鎌倉時代初期に作られたものと言われています。
元は日置村の山王権現に祀られていましたが、明治四年(1871)に山王権現、若宮神社、浅田神社が合祀されて若田神社になったタイミングで、山王権現の別当寺院である金剛心院に引き取られたそうです。


夜な夜な天橋立を歩き回る狛犬。


伝承地:宮津市日置

獅子岩

獅子岩 (ししいわ)


獅子崎の海岸から離れた所に、蓬莱島という松の茂った小島がある。
この島は、文殊菩薩が乗ってきた獅子を休ませた所だという。
また、獅子崎の海岸には“獅子岩(獅子石とも)”という獅子に似た形の岩がある。
昔、この岩を庭石にしようと持ち出したところ、吼えて止まなくなったため、元の場所に戻したという。

『丹後州宮津府志』巻之五「小島」
『栗田村誌』「獅子岩」より


文殊菩薩は与謝海(天橋立付近)で暴れ回る龍神を鎮めるため、中国から獅子に乗って宮津にやって来たと伝えられています。

ちなみに、京都市左京区大原の三千院の奥、浄蓮花院というお堂の前には「獅子石」という岩があるそうです。
平安時代の僧・良忍が大原で文殊の法を修めた時、この岩が獅子に変わり、踊り巡って咆哮したと伝えられています。(『雲根志』)


伝承地:宮津市獅子崎(獅子岩の位置は不明)


千賀一族の亡魂

千賀一族の亡魂 (せんがいちぞくのぼうこん)


昔、大島の顕孝寺の住職が大島城跡に登ったまま行方不明になった。
その後、住職は城の南の断崖に沈む廃船の中で死体となって発見されたが、不思議なことにかすり傷一つついていなかった。
村人たちは天正の頃に滅亡した千賀一族の恨みの亡魂か天狗の仕業に違いないと考え、住職が蒐集していた庭用の石や五輪塔を集め、千賀氏の塚として懇ろに祀った。
だが後任の住職が早逝したことで寺は無住となり、荒れ果てていった。
そして天保の頃、元昉という僧が顕孝寺を訪れ「寺が荒廃したのは亡霊の霊祭を疎かにしたからだ」と考えた。
ある日の夜更け、元昉が村を歩いていると、突然山崩れと共に石の裂ける音が響き、一陣の冷たい怪風が吹き渡った。
元昉は身の毛がよだち、冷や汗が吹き出る程の恐怖に襲われたが、九字護身法を修めて無事を念じると怪風は止んだ。
そして早速霊祭を執り行ったところ、怪しげな音も止んだという。
その後天保六年(1835)、元昉は金毘羅神宮を勧請して亡霊たちを祀り、金毘羅堂を建て大島の守り神としたという。

『双書 四方山雀』第13号「橋北 そのⅢ」「金毘羅権現」より


千賀氏は天正十年(1582)、細川氏によって居城の大島城を攻め落とされ、一族は戦死または離散し滅亡したと伝えられています。
(城主の千賀山城守は落ち延び、後に徳川家康に仕えたとも(『一色軍記』))


伝承地:宮津市大島


龍灯の松

龍灯の松 (りゅうとうのまつ)


文殊に“龍灯の松”と呼ばれる高い松があり、毎月十六日の夜、この木に龍神が龍灯を捧げ留まるという。
天和三年(1683)三月十六日、知恩寺で千部読経が行われたが、四日目の夜五ツ時(午後八時頃)に海の方から龍灯が現れ、一番高い松につるつると上った。
その日は庚申の夜で、そこにいた多くの参詣者が龍灯を見たという。
またこれより以前、南宗和尚の頃に知恩寺で千部読経が行われた時も、二日目の夜に龍灯が松に上ったという。
その日も庚申の夜だったという。

『宮津府志・宮津旧記』「龍燈松」
『丹後旧語集』「龍燈の松」より


灯(竜灯)と呼ばれる怪火が樹上や海上に浮かぶという伝承は各地に見られ、例えば栃木県には「雷電山の麓に池があり、雨降りの夜には多くの竜灯が現れ松の枝に上がる」という話が伝えられています。(『斉諧俗談』)

宮津の龍灯については、江戸時代の奇談集『諸国里人談』に「宮津では毎月十六日夜半、丑寅(北東)の沖より竜灯が現れ文殊堂の方に浮かび寄る。堂の前に松が生えているが、これを“竜灯の松”という。また正月・五月・九月の十六日の夜、空から一灯が下る。これを“天灯”という。更に“伊勢の御灯”という一火もある」と、龍灯の松やその他の怪火の説明がされています。
また『奇異雑談集』にも、宮津万福寺の愛阿上人が知恩寺で竜灯を見たという記述があります。


龍灯の松跡地
龍灯の松跡地。
現在は墓地になっていますが、かつてここに龍灯の松があったそうです。
龍灯の松は高さ百五十尺(約45m)、太さ三抱え余り、樹齢八百年の大木だったと言われていますが、昭和九年(1934)に発生した台風で折れてしまいました。(『郷土と美術』3年1号「橋立の名松」)
ちなみに享保十一年(1726)に版行された『丹後与謝海天橋立之図』(貝原益軒・著)の天橋立周辺の地図にも龍灯の松が描かれていて、古くからその存在を知られていたことが窺えます。
折れてしまったのが口惜しい。


龍灯の松の写真
在りし日の龍灯の松。(『丹哥府志』)
めちゃくちゃでかいですね。


福知山市の元伊勢神社にも龍灯が灯る杉があります。


伝承地:宮津市文殊


灯明が灯る丘

灯明が灯る丘(とうみょうがともるおか)


松尾から木子へ向かう途中に小高い丘がある。
何の変哲もない岩山だが、田井集落の村祭の日にはこの丘に灯明が灯ると言い伝えられている。
また昔、ある老婆が丘の頂上の雑木を切ったところ、腹痛に苦しめられた。
それ以来、誰もこの丘の木を切らなくなったという。

『私たちの小さな宮津・松尾史』「田井の産土神」より


伝承地:宮津市松尾


鶏塚

鶏塚 (にわとりづか)


① 
昔、源兵衛という男の飼い猫が家出した。
その後猫は女房になりすまして家に戻り、源兵衛を噛み殺す機会を窺っていた。
そしてある日、遂に猫は源兵衛を噛み殺そうとした。
だが家で長年飼われている鶏が大声で鳴いて危機を知らせたため、源兵衛は殺されずに済んだ。
化け猫は鶏を噛み殺し、どこかへ逃げていったという。
この鶏を埋めた「鶏塚」は、知恩寺へ向かう道路のそばの山に祀られている。(『丹後史伝』)

② 
昔、岩滝に病人のいる家があった。
その家で飼っている鶏が毎晩鳴いてうるさいので、桟俵に乗せて海へ流した。
だが後に毒を持つ青とかげが病人の薬を舐めていたことがわかった。
鶏はそのことを家人に知らせていたのだった。
その後、家人は鶏のために「鶏塚」を建立したという。(『おおみやの民話』)

③ 
昔、旅の六部が文殊の海岸を通りかかった時、箱に入れられた鶏が「野田の長兵衛猫がとる」と鳴いていた。
長兵衛の家に行って訳を尋ねると「あの鶏は鳴いて困るから捨てた」という答えが返ってきた。
そこで鳥小屋を調べたところ、青とかげを咥えた猫が米びつの上を飛び回っていた。
猫は毒を持つ青とかげを使い、長兵衛たちを殺そうとしていたのだった。
長兵衛は鶏を連れ戻しに行ったが、既に死亡しており、その場所に「鶏塚」を建てたという。(『おおみやの民話』)

『丹後史伝 史実と伝説 一集』「鶏塚」より
『おおみやの民話』「鶏塚」より


宮津の鶏塚には以下のような伝承もあります。

平安時代、宇多天皇が宇治山から出た金で雌雄の鶏を作らせた。
すると天皇を怨む太子や皇后がこの金鶏を使って呪詛したが、露見して失敗に終わった。
その後、金鶏は藤原氏→足利氏と受け継がれたが、足利義満の時代に賊に盗まれてしまった。
後に賊は捕らえられ、金鶏を隠した場所を自白した。その場所が今の鶏塚だという。(『岩滝町誌』)

他にも、鶏塚は平安時代の歌人・和泉式部の歌集を埋めた所であるとか、除夜の鐘の度に塚から鶏の鳴き声が聞こえるなど、様々な伝承が残されています。(『宮津府志』)


鶏塚
文珠の鶏塚。
知恩寺へ向かう道路脇の林の中にあり、現在はカラフルなお地蔵様(化粧地蔵)が祀られています。


鶏の置物
塚には鶏の置物×2が供えられていました。


伝承地:宮津市文珠


  • ライブドアブログ