丹波・丹後の妖怪あつめ

京都府北部(丹波・丹後地域)の怪異妖怪伝承を紹介するブログです。

与謝野町

ガアタロ

ガアタロ


昔、野田川によくガアタロ(河童)が出て、人の尻を抜いたり化かしたりしていた。
そのため、子供は川へ入らず、まじないに胡瓜を供えていた。
また、子供が水に溺れないためのまじないとして、「初めてとれた胡瓜を竜宮の乙姫様に上げます。家内一同水で不調法しませんように」と唱え、川に胡瓜を流すという。

『野田川町誌』「ミナヅキマツリ(水無月祭り)、カワソッサン」より


伝承地:与謝野町三河内(野田川)


床浦の谷の主

床浦の谷の主 (とくらのたにのぬし)


ある年の夏、温江村の源助という百姓が、大江山の床浦の谷で草刈りをしていた。
源助が刈り取った草を置き場へ運ぶと、そこに小さな蛇がとぐろを巻いて座っていた。
二把、三把と草を運ぶにつれて蛇はどんどん大きくなっていき、やがて大蛇となって源助を睨みつけた。
源助は蛇にからかわれていると思い、「わしに喧嘩をしかけるのか。それなら明日の昼過ぎにここで勝負しよう」と叫ぶと、大蛇は草むらに姿を消した。
翌日の昼、源助は先を尖らせた榁(むろ)の木を手に、対決の場所で待っていた。
すると、ゴーという音を立てて風が吹いたかと思うと、草むらから昨日の大蛇が襲いかかってきた。
大蛇は源助を呑み込もうと大口を開けて何度も飛びかかり、一方、源助は大蛇の攻撃を避けながら榁の木で所構わず殴りつけた。
両者の攻防は数時間に及び、やがて源助は力尽きて気絶してしまった。
再び源助が目覚めた時、既に辺りは暗くなっており、横には血塗れの大蛇が倒れていた。
源助は自分が勝利したことを確信すると、大蛇を担いで村まで戻り、その死体を道端の稲架にかけた。
八段ある稲架の上から二つ折りにしてかけたが、大蛇の頭と尾は長く、地面に着いてしまった。
稲架にかけられた大蛇の死体を見た村人たちは大騒ぎし、村は源助の話題で持ちきりになった。
ところが、その夜から源助は高熱にうなされ、何日も寝込んで生死の境をさまよった。
そして四日目の夜、源助の枕元に神主のような白装束を着た老人が立ち、「わしは床浦の谷の主じゃ。お前との勝負に負けたのは仕方がないが、わしの死体を稲架にかけて見世物にしたのは残念じゃ」と言った。
源助が「あなた様を床浦明神として床浦の谷にお祀りしますので許して下さい」と平伏して謝罪すると、老人は消え、同時に熱が下って元気になった。
その後、源助は大蛇の死体を懇ろに葬り、床浦の谷に小祠を建てて祀った。
それ以来、温江村では稲架は八段にせず、九段にするようになったという。

『加悦町史 資料編 第一巻』「床浦明神のはなし(温江)」より


現在、床浦明神は温江の大虫神社に合祀されています。


伝承地:与謝野町温江


峠の大入道

峠の大入道 (とうげのおおにゅうどう)


昔、野田川の奥山の峠に大きな古狸が棲んでいた。
その峠は夜になると大入道が出ると言って、村の者は誰も通らなかった。
ある日の夕方、盲目の旅人が奥山の峠を目指し歩いていた。
それを見た村人が「あの峠には大入道が出るんだ。行ったら殺されるぞ」と止めたが、旅人は「私は目が見えないので大入道が出てもわからない」と言って峠へ向かった。
一方、古狸は峠道を上って来る旅人を見つけ、「人が来るぞ」と喜び、呪文を唱えて大入道に化けた。
そして旅人の前に現れ、「こらあ、お化けだぞう」と言って、大きな目を剥いて睨みつけた。
だが旅人は目が見えないので、大入道を無視して歩き続けた。
古狸は慌て、更に大きく目を剥いて脅かしたが、それでも反応はなかった。
どれだけ脅かしても無視されるので、いよいよ古狸は腹を立て、「これでもか」と言って今にも飛び出しそうな程大きく目を見開いた。
するとその拍子にぽーんと目玉が弾け、死んでしまったという。

『丹後の民話 1 狐狸ものがたり』「大人道退治」より


伝承地:与謝野町石川(奥山の峠=石川の東にある地蔵峠のこと?)


槌鬼

槌鬼 (つちおに)


昔、加悦の地に大国主命と沼河比売の夫婦の神が住んでいた。
だがある時、“槌鬼”という悪霊が、沼河比売に邪気を吹きかけると同時に体内に入り込み、病気にしてしまった。
槌鬼のせいで病気になったとは知らず、大国主命は手を尽くして看病したが、沼河比売の病状は悪くなる一方だった。
そこへ少彦名命が来て、沼河比売に七色の息(八色とも)を吹きかけた。
吐息を受けた槌鬼は沼河比売の体内から追い出され、絶命して消え去った。

こうして沼河比売は快復したが、同時に少彦名命の吐息を受けた草木や作物は抵抗力を失い、虫に食い荒らされ出した。
そこで、少彦名命は病気の元となる体内の虫を、大国主命は体外の虫を取り除くことを決め、草木や作物の内外の虫を全て退治した。
その後、大国主命は鏡を二つ作り、一つを少彦名命に与えて「小虫」と呼び、もう一つは自分が持って「大虫」と名乗り、人や作物を守ることを固く誓ったという。

『加悦町史 資料編』第一巻「大虫さんと小虫さん(温江)」
『加悦町誌』「少彦名命と宝鏡」より


ちなみに『舞鶴の民話 第四集』では「槌鬼は大国主夫婦のラブラブっぷりに嫉妬して沼河比売を病気にした」とあります。性格悪い。


大虫神社
温江の大虫神社。祭神は大巳貴命(大国主命)。
元々は大江山の中腹の池ヶ成という所に祀られていましたが、室町時代に今の場所に移祀されました。
麻呂子親王が三上ヶ嶽(大江山)の三鬼を退治する時、神像を作って納め、戦勝祈願した神社と伝えられています。(神像は後に焼失)
また、親王の鬼退治をサポートした白犬がつけていた鏡を祀っていることから、「犬鏡大明神」とも呼ばれています。


小虫神社
小森谷の小虫神社。
祭神は少彦名命で、こちらも大江山の池ヶ成に祀られていました。
ちなみに境内には「猫宮」という由緒不明の摂社があります。
鼠から蚕を守ってくれる猫を神として祀っているのでしょうか。(与謝野町は丹後ちりめんで有名な町ですし)


伝承地:与謝野町温江

水戸谷峠の怪

水戸谷峠の怪 (みとだにとうげのかい)


ある日の夜明け前、大宮町の森本の老婆がぼた餅を背負い、与謝野町の山田に嫁いだ娘の家へ向かっていた。
だが水戸谷峠の頂上に来ると、急に先が見えなくなった。
進もうとしても前に行けず、へたり込んでいる内に夜が明けた。
背中のぼた餅は無事だったが、外側は砂だらけになっていたという。

『おおみやの民話』「水戸谷で化かされる」より


何者かが老婆を立ち往生させ、荷物のぼた餅を盗もうとしたのでしょうか。

その他の水戸谷峠の怪異


伝承地:与謝野町上山田、京丹後市大宮町三重


鶏塚

鶏塚 (にわとりづか)


① 
昔、源兵衛という男の飼い猫が家出した。
その後猫は女房になりすまして家に戻り、源兵衛を噛み殺す機会を窺っていた。
そしてある日、遂に猫は源兵衛を噛み殺そうとした。
だが家で長年飼われている鶏が大声で鳴いて危機を知らせたため、源兵衛は殺されずに済んだ。
化け猫は鶏を噛み殺し、どこかへ逃げていったという。
この鶏を埋めた「鶏塚」は、知恩寺へ向かう道路のそばの山に祀られている。(『丹後史伝』)

② 
昔、岩滝に病人のいる家があった。
その家で飼っている鶏が毎晩鳴いてうるさいので、桟俵に乗せて海へ流した。
だが後に毒を持つ青とかげが病人の薬を舐めていたことがわかった。
鶏はそのことを家人に知らせていたのだった。
その後、家人は鶏のために「鶏塚」を建立したという。(『おおみやの民話』)

③ 
昔、旅の六部が文殊の海岸を通りかかった時、箱に入れられた鶏が「野田の長兵衛猫がとる」と鳴いていた。
長兵衛の家に行って訳を尋ねると「あの鶏は鳴いて困るから捨てた」という答えが返ってきた。
そこで鳥小屋を調べたところ、青とかげを咥えた猫が米びつの上を飛び回っていた。
猫は毒を持つ青とかげを使い、長兵衛たちを殺そうとしていたのだった。
長兵衛は鶏を連れ戻しに行ったが、既に死亡しており、その場所に「鶏塚」を建てたという。(『おおみやの民話』)

『丹後史伝 史実と伝説 一集』「鶏塚」より
『おおみやの民話』「鶏塚」より


宮津の鶏塚には以下のような伝承もあります。

平安時代、宇多天皇が宇治山から出た金で雌雄の鶏を作らせた。
すると天皇を怨む太子や皇后がこの金鶏を使って呪詛したが、露見して失敗に終わった。
その後、金鶏は藤原氏→足利氏と受け継がれたが、足利義満の時代に賊に盗まれてしまった。
後に賊は捕らえられ、金鶏を隠した場所を自白した。その場所が今の鶏塚だという。(『岩滝町誌』)

他にも、鶏塚は平安時代の歌人・和泉式部の歌集を埋めた所であるとか、除夜の鐘の度に塚から鶏の鳴き声が聞こえるなど、様々な伝承が残されています。(『宮津府志』)


鶏塚
文珠の鶏塚。
知恩寺へ向かう道路脇の林の中にあり、現在はカラフルなお地蔵様(化粧地蔵)が祀られています。


鶏の置物
塚には鶏の置物×2が供えられていました。


伝承地:宮津市文珠


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