丹波・丹後の妖怪あつめ

京都府北部(丹波・丹後地域)の怪異妖怪伝承を紹介するブログです。

丹波市

御嶽山の牛鬼

御嶽山の牛鬼 (みたけさんのうしおに)


昔、余田徳尾村に松本弥助という三人張りの弓を引く名人がいた。
ある時、弥助は余田徳尾の深山に現れた牛鬼を弓で射た。
牛鬼は矢傷を負いながら棲み処の御嶽山まで戻り、そこで死んだという。

『丹波志』巻之四「姓氏部」より


『姓氏家系大辞典』にも御嶽山の牛鬼の話が載っていますが(内容は『丹波志』の引用)、こちらでは「此の牛鬼は御嶽山(天田郡)に住む故、矢を負ひながら山に叛り死す」とあり、牛鬼の棲み処は天田郡の御嶽山(福知山市北部の三岳山)だという注釈が入っています。
ちなみに引用元の『丹波志』には御嶽山の正確な場所は書かれていません。
福知山市の三岳山は丹波市の徳尾から15~20kmくらい離れた位置にあり、山を幾つか越えなければ辿り着けません。
つまり牛鬼は致命傷を負いながらもその距離を移動して棲み処に帰ったということになります。手負いでもタフネス。


伝承地:丹波市市島町徳尾


蛇山岩尾城

蛇山岩尾城 (へびやまいわおじょう)


永正元年(1504)、和田庄の領主・谷出羽守兵部介は甥の和田斉頼を信州から婿養子として迎え入れた。
ところが永正十年(1513)、斉頼は家臣の讒言によって兵部介を殺害し、和田庄の領主となった。
その後、斉頼は和田庄の北山にある岩尾城を居城としたが、兵部介の亡霊に憑かれたのか、悪夢に悩まされ、度々家臣を惨殺した。
また家中にも異変が頻発し、斉頼は己の犯した罪の深さに悶えながら暮らしていた。
同じ頃、信州から斉頼に従って来た家臣の石田寬助と妻の於蘭にも異変が起こっていた。
ある日、寛助が城勤めから帰宅すると、於蘭は何かに憑かれたような態度でどこか様子がおかしかった。
寛助は不審に思い、その夜は眠らずに妻の様子を窺っていたが、いつしか浅い眠りに落ちていた。
ところがうたた寝から目を覚ますと、いつの間にか横で眠る於蘭の髪がずぶ濡れになっていた。
寛助に気づかれずに出かけられるはずもないが、その日は於蘭に問いただすことなく黙っていた。
だがそれからというもの、夜な夜な髪を濡らして眠る於蘭の姿を見るようになった。
そんなある日、寛助が所用でいつもより遅い時間に帰宅すると、何故か玄関も雨戸も全て閉じられていた。
怪しんで小窓から家の中を覗くと、於蘭が唸り声を上げ、苦しみのたうち回っていた。
そして於蘭の腹から何匹もの子蛇が産まれ出て、床を這い回った。
その光景を見た寛助は信州に逃げ帰り、二度と和田庄に戻らなかったという。
その後も岩尾城には災いが続き、天文十三年(1544)、遂に斉頼は病死した。
そしていつしか城は「蛇山岩尾城」と呼ばれるようになったという。(『由緒を尋ねて』)

続いて『北はりま、丹波昔ばなし百話』に載る蛇山岩尾城の話を紹介します。

永正年間、和田庄の領主・谷出羽守兵部介は信濃から甥の和田斉頼を婿養子として迎えた。
ところが斉頼は部下に兵部介を殺害させ、和田庄の領主に成り代わった。
そして居城の岩尾城の麓にある明神池に兵部介の首を投げ込んだ。
この池の中央には祠があり、時々大蛇がとぐろを巻いていたので、村人たちは蛇池と呼んでいた。
だがその後、斉頼夫婦は兵部介の亡霊に悩まされる日々が続き、たまりかねた斉頼は妻を尼にして北和田に小屋を建て、兵部介の霊を慰めることにした。
また兵部介殺害に加わった足軽の石田某も、毎晩何かに襲われる夢を見ていた。
その頃、蛇池で二匹の大蛇が目撃され、村人たちは「蛇池で二匹の大蛇が絡み合っていた。一匹は白蛇だった」「二本の角を生やした黒髪の大蛇だった」などと噂した。
石田はその噂を聞き、遂に病気になって寝込んでしまった。
するとその年の夏の夜、故郷の信濃に残してきた恋人の加代が石田の家を訪ねて来た。
石田は「看病に来た」と言う加代に驚きつつも手を取って家の中へ入れたが、その手は氷のように冷たかった。
その夜から加代が世話をしてくれたので、石田の病気も良くなり、仕事に復帰するまでに快復した。
石田は五日毎に城の警護で朝帰りをしていが、その時に限って加代の目がキラリと光り、髪が濡れていることを不審に思っていた。
そんな時、同僚から「加代が蛇池に立っていた」という話を聞き、石田は不安を募らせていった。
そして次の警護の夜、加代の様子を探るために城を抜け出して家に戻ると、中からバタバタと畳を打つ音が聞こえてきた。
雨戸の節穴から覗いてみると、布団の上に大きな白蛇が横たわっており、その周りを生まれたばかりの子蛇が這い回っていた。
石田は驚き、故郷の信濃へ逃げ帰ったが、追いかけてきた加代の化身の白蛇に殺されてしまったという。
それ以来、城は「蛇山岩尾城」と呼ばれるようになった。(『北はりま、丹波昔ばなし百話』)

『由緒を尋ねて』「和田の蛇山岩尾城」
『北はりま、丹波昔ばなし百話』「蛇山岩尾城のいわれ」より


蛇山岩尾城の話は幾つかの書籍に載っていますが、それぞれ内容が微妙に異なっています。
丹波の古地誌『丹波志』にも蛇山岩尾城の話がありますが、和田斉頼が兵部介殺害後に亡霊に悩まされるという記述はなく、蛇を出産した妻の話も「斉頼家臣の足軽の妻が夜に城へ通い、やがて大量の蛇を産んだ。その後足軽は故郷の信州に帰ったが、追って来た妻に噛み殺された」という内容になっています。
また『山南町誌』では、斉頼が兵部介を殺害するエピソード自体がなく、蛇を産んだ妻の話だけ書かれています。
その内容は「斉頼家臣の岩尾吉助の妻が毎夜城山に通い蛇の子を産んだ。出産を見られた妻は鬼女に姿を変え、信州に逃げた吉助を追いかけて喰い殺した」とあり、妻が鬼女に変身するシーンが加えられていますが、話の流れは『丹波志』とよく似たものとなっています。
いずれもストーリー展開はだいたい同じですが、本文の参考資料『由緒を尋ねて』以外は家臣の男が妻(恋人)に殺されるエンドになっています。救いがない。
ちなみに岩尾城がある城山は中腹に岩が連なっていて、まるで蛇が横たわっているように見えることから、その山の背に築かれた城を「蛇山岩尾城」と名づけたとも言われています。(『山南町誌』)


伝承地:丹波市山南町和田


やぐろ大明神

やぐろ大明神 (やぐろだいみょうじん)


戦国時代のある雨の日、僧に扮した十一人の落人が久下村を訪れた。
僧たちは家々を巡り一夜の宿を求めたが、落人だと感づかれことごとく拒否された。
そんな中、善兵衛という情け深い百姓が僧たちを家へ招き入れ、粟汁を振舞ってもてなした。
僧たちは善兵衛の家で一夜を過ごしたが、翌日になっても雨は止まず、その日も滞在することになった。
ところがその夜、僧の一人が急に苦しみ出し、介抱する間もなく死亡した。
それを皮切りに、次の夜も一人、また一人と倒れていき、遂に十一人全員が死んでしまった。
善兵衛は他の村人から「あんな貧乏僧の世話をするからだ」と罵られながらも、僧たちを手厚く葬った。
するとその日から村にひどい悪疫が流行り、村人は次々に死んでいった。
誰言うとなく「あの僧たちの祟りだ。丁寧に葬れば流行病もなくなるだろう」と、法要を営んで墓を整えたところ、それからは流行病で倒れる者はいなくなった。
その後、村に“やぐろ大明神”という小さな祠が建てられ、流行病の神として信仰を集めたという。

『山南町誌』「やぐろ大明神」より


伝承地:丹波市山南町谷川(やぐろ大明神の位置は不明)



蛇ない

蛇ない (じゃない)


昔、応地の子供たちは佐治川の対岸にある田圃で遊ぶことが多かった。
ある日、子供たちはいつものように対岸の田圃で遊んでいたが、急な大雨に見舞われた。
慌てて家へ戻ろうとしたが、大雨で川の水嵩が増し、対岸に取り残されてしまった。
この頃は橋もなく、増水した川は大人ですら渡ることが出来ず、子供たちを助けられないまま時間だけが過ぎていった。
するとその時、川上から見たこともない大蛇が現れ、川の両岸に巨体を横たえて橋になり、子供たちを村の方へ渡した。
人々は子供たちの無事を喜び、大蛇はその光景を温かく見守った後、静かに姿を消した。
それ以来、人々は大蛇を応地の守り神の化身として崇め、毎年一月九日に藁で大蛇を編む“蛇ない”の神事を行うようになった。

『山南町誌』「蛇ないのいわれ」より


蛇ないは応地集落の伝統神事で、毎年一月九日に行われています。
神事の日は藁で作った大蛇を抱えて集落の各戸を回り、その家の子供や年寄りの頭を噛んで無病息災を祈ります。
集落を練り歩く時に大蛇が暴れれば暴れる程、良い年(豊作)になると言い伝えられていてます。
そして最後は大蛇を集落の氏神である大歳神社の松の木にかけ、御幣を背中に三本、腹に二本互い違いに立てて祀り、蛇ないの神事は終了となります。
松にかけた大蛇は翌年の蛇ないの日まで、集落の守り神として祀るそうです。
ちなみに蛇ないの名前は「蛇を綯い上げる」ことから来ています。

蛇ないの大蛇

藁の大蛇。
大歳神社の参道を横切るようにかけられています。勧請縄みたいですね。
以前は佐治川の畔の大松にかけられていましたが、昭和の頃に松が枯れてしまったことから、現在の場所に変更されたそうです。
頭が集落側(向かって右側)を向くようにされているのは、大蛇に集落を見守ってもらうためだと言われています。

橋になって天皇を対岸に渡した大蛇


伝承地:丹波市山南町応地


子育て幽霊

子育て幽霊 (こそだてゆうれい)


ある夏の深夜、氷上町石生のトラック運転手が但馬の柴(兵庫県朝来市)の外れで若い女を乗せた。
ところが丹波の青垣町へ抜ける遠坂トンネルに入ると、いつもより冷気を感じ、前方に燐火が飛んで行くのが見えた。
トンネルを抜け、遠坂集落の灯りが見える所で女を降ろすと冷気はなくなった。
その後、女は秋の初めまで強い夕立があった日の深夜に限って現れ、運転手は但馬から丹波まで乗せて行った。
この女は遠坂に嫁いでいたが、子を身籠ったまま離縁され、柴で男児を産んで死んだ。
男児は丹波の女の実家に引き取られたため、夜な夜な但馬の墓から我が子の元へ乳を飲ませに通っていたのだという。

『現代民話考[3] 偽汽車・船・自動車の笑いと怪談』「子育て幽霊」より


運転手は女が幽霊だと気づいていたんでしょうか。
気づいていながら乗せていたんだとしたら……運転手の度胸と優しさは天井知らずですね。

タクシーを利用するお姫様


伝承地:丹波市青垣町遠坂-朝来市柴


久下弥三郎時重の屋敷

久下弥三郎時重の屋敷 (くげやさぶろうときしげのやしき)


金屋村に久下弥三郎時重の屋敷跡がある。
屋敷の東の土塁は藪で、西の土塁には八幡社があり、そこに時重を祀っている。
この屋敷に古井戸があるが、時を決めて日に二度、井戸水が濁るという。
村人が屋敷内の竹や木、土を取れば祟りがあり、また村の中で「弥三郎」と名づければ障りがあるという。
そのため、地主は検地の際に屋敷の謂れを説明し、除地扱いにすることを願った。
検地役人はその申し出を受け入れ、屋敷は八幡社の境内として免租地になったという。

『丹波志 氷上郡』巻之五「久下弥三郎時重旧栖」より


久下弥三郎時重は鎌倉時代末期の武士で、足利尊氏が丹波国篠村(亀岡市篠町)で挙兵して各国から軍を招集した時、兵百十騎を率いて一番乗りで駆けつけたと伝えられています。(『太平記』)
また、尊氏が幕府軍に追われ丹波国井原(丹波市山南町)に身を潜めている時、地頭の時重が救援に駆けつけ、追っ手を攪乱して尊氏を西国に落ち延びさせたという話もあります。(『丹波志』)


伝承地:丹波市山南町金屋


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