丹波・丹後の妖怪あつめ

京都府北部(丹波・丹後地域)の怪異妖怪伝承を紹介するブログです。

丹波市

柏原の天狗

柏原の天狗 (かいばらのてんぐ)


今回は丹波市柏原町に伝わる天狗の話を五つ紹介します。

挙田の崖の上に、天狗松という大きな松があった。
この松を切ると祟りがあると言われ、誰も手をつけなかった。
昔、この松に天狗が棲み、梢から由良の愛宕山(氷上町)目がけて飛んで行ったという。

北中の長助という猟師が山へ猪狩りに行った。
山中で猪を待ち構えていると、そばにあった六本の樅の木が大きな音を立てて揺れ出し、大蛇が現れた。
長助は驚き、大蛇目がけて鉄砲を撃ったところ、鼻の高さが30cmもある真っ赤な大きい顔の天狗が現れ、「こら長助、これ以上撃つならお前の命をもらうぞ。命が欲しけりゃとっとと消え失せろ」と怒鳴った。
長助は肝を潰し、転ぶようにして山を駆け下りたという。

沖田の杢助という男が山へ猟に行き、大きな鳥に鉄砲を向けて撃とうとした。
すると「こら待て」という怒鳴り声と共に天狗が現れ、杢助の鉄砲を掴み、見る間にへし曲げてしまった。
杢助はあまりの恐ろしさに飛んで帰った。
数日後、再びその山へ行ってみると、へし曲がった杢助の鉄砲が捨ててあったという。

三人の百姓が権現山の中腹に小屋を建て、泊まり込みで炭焼きをしていた。
ある日の夜、三人が小屋で夕食を食べていると、突然、獣の遠吠えのような唸り声が聞こえて来た。
一人で外に出るのは怖いと、三人は連れ立って小便をしに小屋を出ようとしたが、いきなり天狗が飛び込んで来て睨みつけた。
肝を潰し、腰を抜かして震える三人をよそに、天狗は小屋の真ん中に座り込み、睨みつけながら酒や握り飯を平らげた。
そして天狗は赤い顔を更に赤くして、三人を睨みつけたまま、ずっしずっしと小屋から出て行ったという。

江戸時代、柏原藩の家臣に、星合と滝という武術に優れた侍がいた。
だが禄高は滝の方が上だったので、星合は悔しがり、権現山に「力をお与え下さい」と願をかけ、毎晩山に登って槍の修行に励んだ。
そして二十一日目の満願の夜、星合が山頂で一心に祈っていると、大地が裂けるような轟音が響き、背の高い天狗がにょっきと現れた。
星合が槍を突きつけると、天狗はその穂先を掴んでげらげらと笑い「お前はなかなか勇気がある奴じゃ。日頃の熱心な修行に免じ、天狗の力を授けよう」と破れ鐘のような声で言い、空高く舞い上がって姿を消した。
星合は不思議に思いながら家に帰り、風呂に入って汗を流し、手拭いを絞った。
すると、手拭いはばりばりと音を立ててねじ切れてしまった。
仕方なく別の手拭いを出して同じように絞ったが、またもやねじ切れてしまったので、星合は「これは天狗が授けてくれた力に違いない」と言って喜んだ。
それから間もなく、星合と滝は藩の殿様の御前で試合をすることになった。
試合が始まり、互いに槍を交わした瞬間、星合は滝の槍を跳ね上げた。
すると、それ程強い力で跳ねたわけでもないのに、滝の槍は軽々と空に舞い上がった。
こうして星合は試合に勝ち、その後、滝を凌ぐ禄高を得たという。

『柏原の民話とうた』「天狗五話」より


荒っぽい天狗が多い。


伝承地:丹波市柏原町挙田、北中など


白髭の老人

白髭の老人 (しろひげのろうじん)


延宝元年(1673)、河内国の小坊主・儀北は丹波国の円通寺を目指して旅をしていた。
その道中、春日庄長谷宿の外れで休んでいると、どこからともなく二匹の銀狐が現れ、儀北を促すように飛び跳ねた。
不思議に思い銀狐について行くと、やがて草に埋もれた屋敷に辿り着いた。
屋敷には大きな桜の木が生えており、そのそばに牢獄らしきものがあった。
すると銀狐はスーッと姿を消し、牢獄の中から鍬を持った白髭の老人が現れ、「ここは鎮守の領地である。何用で立ち入った」と聞いてきた。
儀北が「銀狐に案内されて来た」と説明すると、老人は「お前は高徳の師と見える。ここに堂を建て俗界を浄化する気はないか」と聞いてきた。
だが儀北が修行中の身だと言って断ると、老人は「修行をするなら円通寺に行くのはやめ、長谷宿の奥にある庵でしばらく里人に説教をして済度するように」と告げ、あっという間に白雲と化してしまった。
その後、儀北は老人の言葉に従って長谷宿の奥の庵に移り住み、数年間民衆の教化に努めたという。

『由緒を尋ねて』「国領の流泉寺」より


伝承地:丹波市春日町国領


藤の森

藤の森 (ふじのもり)


昔、市島町矢代の国道175号線沿いに“藤の森”という蔦を絡ませた藤の茂みがあった。
過去にはこの藤を切ろうとした人もいたが、その度に怪我をしたり急病になったり火事に遭ったり、果ては一家三人が続けて死亡するなどの不幸に見舞われたので、誰も近づかなかった。
これは天正七年(1579)、明智光秀の侵攻によって黒井城(赤井氏居城)が落城した時、明智方の手引きをした村人一家三人が赤井軍の残党にこの地で惨殺されたためだと言われている。
また一説には、赤井軍の落武者七人がこの地で生き埋めにされ、その内の一人が持っていた法華経の経文の心が、死者の恨みと共に藤に乗り移ったとも言われている。
そのため昭和三十四年(1959)、大乗寺の伊藤妙降という尼僧が藤の供養を始めたという。
一方、昭和五十九年(1984)、広島県呉市の井上夫妻が大日如来のお告げを受け、この地に移住した。
そして役場の許可を得て藤の茂みを切り払い、祠を建て「藤乃院」と刻んだ黒御影石を祀ると、それから祟りは起こらなくなったという。

『兵庫の怪談』「藤の森」より


井上夫妻は「藤の森を放置していては落武者の霊も浮かばれないだろうから、退職金をつぎ込んで整備した」と語っていたそうです。すごい信心。

ちなみに本文では「赤井軍の落武者七人がこの地で生き埋めにされた」とありますが、氷上郡の郷土本『多利郷土誌』ではちょっと違った話が語られています。
戦国時代、黒井城の麓に「橋爪」と名乗る金造師の一団がいて、ふじ乃という老婆をリーダーに据え、採鉱で生計を立てていました。
ですがある時、ふじ乃は明智方のスパイに黒井城の秘密の水源地を教えてしまい、城は水の手を止められて落城しました。
赤井軍の残党は落城の原因がふじ乃であることを知り、橋爪の一団を皆殺しにした後、ふじ乃を含む家族七人を生き埋めにしました。
ふじ乃らが生き埋めにされた所が市島町矢代の国道175号線沿いの「藤の森」(または「藤塚」)で、そこを触れば祟りがあると言って長い間恐れられていたそうです。


藤の森
藤の森。
国道沿いの一角に小さな祠と地蔵が祀られています。
この辺りに藤の茂みがあり、昔は「藤の森の写真を撮れば亡霊たちの恨めしげな顔が写り込む」なんて噂されていたそうです。
祠の前には「藤乃院」と刻まれた小さな石柱が建てられています。
見た感じ黒御影石ではなく普通の御影石っぽいですね。作り替えられたのかな。


伝承地:丹波市市島町矢代


山伏ぐろ

山伏ぐろ (やまぶしぐろ)


江戸の終わり頃、ある山伏が谷川村を訪れたが、そこで病にかかり死亡した。
村の定めで墓地に葬ることが出来ず、山伏は桜ノ木という空き地に埋葬され、縦6~7m、横4~5m、高さ2m程の小高い塚が作られた。
谷川村ではこれを“山伏ぐろ”と呼び、塚に生い茂った木を切れば山伏の祟りがあると言って誰も切らなかった。
だが明治の終わり頃、ある木樵が「祟りなんて迷信だ」と言って、塚の木を何本か切り倒して薪にした。
するとその夜から木樵は高熱を出し、毎夜山伏の亡霊にうなされ苦しんだ。
家族や近所の人々が塚に参って非礼を詫びると、木樵の熱は下がり快復したという。
それ以来、塚の木を切る者はいなかったが、昭和の頃、工場の敷地造成で塚は取り払われてしまった。
だが、山伏の霊を弔う法要は毎年行われているという。

『山南町誌』「山伏ぐろ」より


「山伏ぐろ」は「山伏の塚」みたいな意味合いだと思います。
(「ぐろ(畔・壠)」=「小高い所」「物を積み重ねた所」)


伝承地:丹波市山南町谷川

蛇の化身

蛇の化身 (へびのけしん)


昔、上成松村の山中に「おだまきの池」という池があった。
その頃、夜になると新郷村に美しい若者が、大谷村に美しい娘が姿を現すようになった。
二人はそれぞれの村を出発し、上成松村の山裾で合流すると、そのままどこかへ姿を消した。
その噂を聞いた大谷村の助十という男は、邪なことを考え、ある夜、娘の跡をつけた。
ところが娘は途中で尾行に気づき、振り返って助十をじっと見つめた。
すると助十の体は震え出し、足が動かなくなったという。
やがて村人たちの間で「若者と娘は蛇の化身ではないか」と噂されるようになった。
だがその噂が広まると、それ以来二人は姿を見せなくなったという。
二人の蛇の化身は、毎夜おだまきの池で出会い、逢瀬を交わしていたという。

『由緒を尋ねて』「成松おだまきの池」より


昔、おだまきの池のそばには大きな古松が生えていました。
その松はものすごい大木で、黒田(上成松の隣の地区)まで枝をかざしていたそうです。(『丹波志』)
ただ残念ながら、おだまきの池も大きな古松も現存していません。
若者と娘はどこへ行ってしまったんでしょうね。噂されて居づらくなったのかな。


伝承地:丹波市氷上町上成松


葦原の白蛇

葦原の白蛇 (あしはらのしろへび)


天正三年(1575)九月十九日、黒井城の城主・赤井直正は丹波に侵攻した明智光秀軍と交戦していた。
やがて赤井軍は退却を装い、明智軍を黒井の葦原の沼地に誘い込んで一気に殲滅しようとした。
するとその時、黒井城から放たれた伝達の矢文が葦原の中に落ちた。
両軍は矢文を得ようと葦原の中へ入って探したが、どこにも矢文はなく、踏み荒らされた葦の上に真っ白な蛇がうずくまり、明智軍に向かって鎌首をもたげていた。
白蛇に驚いた明智軍は逃げ出し、赤井軍は「これこそ明神の化身に違いない」と士気を上げた。
そして赤井軍の猛攻により明智軍は壊滅し、光秀は近江の坂本城まで敗走した。
その後、赤井軍は白蛇が現れた葦原に、葦原明神の祠を建てたという。
この祠には、代々白蛇が棲むと言われている。

『春日町誌 第四巻』「黒井の葦原明神」より


葦原明神の祠
葦原明神の祠。
工場と住宅の間の狭い路地にひっそりと祀られています。
おもちがお供えされていました。


伝承地:丹波市春日町黒井

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