丹波・丹後の妖怪あつめ

京都府北部(丹波・丹後地域)の怪異妖怪伝承を紹介するブログです。

丹波のどこか

日蓮上人の像

日蓮上人の像 (にちれんしょうにんのぞう)


昔、丹波国黒田村に日蓮上人の像があった。
ある時、村に熱病が流行し多くの死者が出たため、人々は像の祟りだと考え、櫃に入れて山中に捨てた。
それから長い年月が経ち、像のことを知る者もいなくなったが、ある時、山中から経文を読む声が聞こえてきた。
村人は不思議に思い、山へ入って声の出所を辿ったところ、日蓮上人の像を発見した。
早速生福寺(聖福寺?)という寺に安置したが、その後、宇津宮心覚という者が像を奪い取り、京の市中で売り飛ばした。
それを見た本満寺(京都市上京区)の日重上人は急いで像を買い取り、同寺に安置したという。
また一説には、元三大師(良源)の像とも言われている。

『都名所図会』巻一「廣布山本満寺」より


黒田村は現・丹波市氷上町黒田、丹波篠山市黒田、京都市右京区京北の三ヶ所にあったことが確認出来ますが、本文の舞台がどの黒田村を指しているのかは不明です。
『都名所図会』の約三十年前に刊行された『新著聞集』に本満寺の日蓮上人像に関する話があり、「上人像は北山芹生の里の土中から見つかった」と書かれています。
そして像が発見された北山芹生の里は現・右京区京北芹生町のことで、この辺りは黒田村に含まれていました。
このことから、本文の黒田村=京都市右京区京北地域の黒田村説が有力っぽいです。


伝承地:丹波のどこか(京都市右京区京北芹生町?)

人形の怪

人形の怪 (にんぎょうのかい)


昔、丹波国の山里に乙部某という裕福な庄屋の家があり、一人の娘がいた。
娘は幼くして母を亡くしたが、田舎には稀な美しい容貌で、富豪の一人娘ということもあって大切に育てられた。
娘が十三歳になった頃、福知山城下に人形芝居の一座が訪れ、見物人が山のように押し寄せた。
娘も乳母に連れられて芝居を見物に来たが、田舎育ちの娘は人形の巧みな振舞いに魅了され、特に小野頼風(*)が女郎花という女と契る場面に感じ入った。
それ以来、娘はまだ見ぬ恋人に想いを馳せるようになり、心は上の空で思いはくずおれ、やがて病を患い床に伏してしまった。
娘は日に日に衰弱していき、遂に心の悩みに耐え切れず、乳母に「父に頼んでこの間の芝居で見た小野頼風の人形を手に入れてほしい」と涙ながらに訴えた。
乳母から話を聞いた父は、溺愛する我が子のためならばと人形芝居の一座の元を訪れ、大金を払って強引に頼風人形を買い取った。
すると娘はとても喜び、病も忘れて人形を可愛がった。
常に人形を抱きかかえ、共に食事をし、服を着せて髪を結い、夜は同じ布団で眠り、物も言わず笑いもしない人形に語りかける様は、まるで気が狂ったようだった。

時が経ち、娘が十六歳になった頃、父は名家から婿を取って家を継がせようと考えた。
娘も物言わぬ人形を愛でることが虚しくなったのか、その婚姻を承諾した。
そして婚礼の日、乙部の親族が集まる中、娘は婚礼の杯を取り上げて婿に渡そうとした。
するとその時、件の頼風人形がどこからか走って来て、娘の持つ杯を叩き落とし、そのまま娘の膝に抱きついて倒れた。
それを見た人々は慌てふためき、婚礼の場は騒然となり、娘は高熱を発して意識朦朧の状態に陥った。
父は「これはきっと狐狸の仕業に違いない。この人形は打ち砕いて捨ててしまおう」と言って、鋤や鍬を振るい人形を粉々に破壊した。
更に後から祟りがないようにと、近くに住む修験者を招き、事情を説明した。
すると修験者は「それは狐狸の仕業ではない。昔、異国で暑さに苦しむ女が鉄柱に抱きついて涼を取っていたが、鉄柱の気を感じて懐妊し、鉄丸を産んだ例もある。今回は人の形を具えた物を長い間深く執着したことで、その念を感じた人形が怪事をなしたのだ。このままではまた怪事が起こるので力の限り害意を除いてみよう」と言った。
そして修験者は粉々になった人形の破片を集め、壺に収めて固く封をしてから、近くの山の麓に深く埋めて懇ろに供養した。
すると娘も少し回復したように見え、人々は大いに喜び、修験者に頼んで更にお祓いをしてもらった。
ところがある夜、娘はうたた寝をする看病人の目を盗み、寝床を出て行方を眩ませた。
人々は驚き、手分けして方々を捜索したところ、娘は頼風人形を埋めた所の囲いの中にいた。
娘は、片手を土の中に引き込まれた状態で事切れていた。
あまりの出来事に人々は声も出ず、父は狂ったように泣き叫んだが、最早どうしようもなく、修験者に全てを話して供養を行うことにした。
これは心のない人形が長い間妄念に囚われた結果、悉皆成仏(「万物は仏になる」という仏教の言葉)の道を誤ったからだという。
せめて罪障消滅のためにと、人形と同じ土の中に娘の亡骸を埋め、五輪塔を建てて懇ろに弔った。
今も近隣の人々はそこを「人形塚」と呼び、この怪事を語り伝えている。

『奇説雑談』巻之二「木偶恋慕に感じて処女と同穴を契事」より


(*)小野頼風は能楽「女郎花」に登場する人物。頼風は都の女と恋仲にあったが別の女に浮気する。女は頼風が自分を捨てたこと恨み川へ入水。すると女の死体を埋めた塚から女郎花が生えた。だが頼風が近寄ると花は離れてしまい決して触れられない。頼風は悲しみのあまり女の後を追って入水。後に邪淫の因業で責め苦を受ける頼風の霊が塚から現れ旅の僧に成仏を願う、というもの。(『読謡集 第十巻』)


伝承地:丹波のどこか(福知山市?)

人を馬にする家

人を馬にする家 (ひとをうまにするいえ)


昔、丹波国の奥地の山麓に大きな家があった。
家には数十人もの人が住んでいたが、仕事らしい仕事をしていないにも拘わらず、裕福な生活を送っていた。
また、馬を飼っている様子もないのに、月に二、三頭の良馬を売っていたので、人々は不審に思っていた。
その家は街道沿いに建っており、旅人が宿泊することもあったので、人々は「家の亭主が秘術を使い、宿泊客を馬にして売っているのだ」と噂していた。

ある時、五人の俗人と一人の修行僧がこの家に泊まった。
亭主は六人を招き入れると、「お疲れでしょうから、まずはお休み下さい」と言って人数分の枕を用意した。
五人の俗人は眠ったが、僧は丹後国でこの家の噂を耳にしていたので、用心して起きていた。
ふと部屋の仕切りの隙間から台所を覗くと、家人が忙しそうに動き回っているのが見えた。
小刀で仕切りの隙間を広げてよく見ると、畳台ようなものに土が盛られており、家人がその上に何かの種をまいて菰を被せた。
そして茶を四、五服飲む程の時が経った頃、家人が「もう良いだろう」と言って菰を取ると、盛り土から青々とした草が二、三寸(約6~9cm)程生えていた。その葉は蕎麦に似ていた。
家人はその草を取って茹で、蕎麦のように和えて大きな碗に盛りつけると、それを六人の食事として出した。
俗人たちは「珍しい蕎麦だ」と褒めて味わったが、僧は食べるふりをして簀の子の下に捨てた。
食事を終え、六人は家人に勧められるまま風呂へ向かったが、僧は途中で脇に逸れ、便所に隠れて様子を窺った。
すると亭主が錐、金槌、釘を持って現れ、五人がいる風呂場の戸を打ちつけてしまった。
僧は便所にいれば見つかるかもしれないと思い、暗闇に紛れて簀の子の下に隠れ、そこで息を潜めた。
しばらくして「もう良いぞ。戸を開けろ」という亭主の声を合図に、打ちつけられていた戸が開けられた。
すると中から馬が一頭、また一頭、いななきながら駆け出て、庭を踊り回った。
そうして五頭の馬が出て来たが、いつまで待っても六頭目が現れないので、亭主たちは灯りで風呂場を照らした。
ところが中には何もおらず、亭主たちは「もう一人はどこへ行った」と言って僧を捜し始めた。
僧はその騒ぎに乗じて簀の子から抜け出すと、家の裏山を登って遠くへ逃げ延びた。

翌日、僧は国の守護所に行き、昨夜の出来事を詳しく訴えた。
話を聞いた守護は「あの噂は本当だったのか」と言うと、兵を率いてその家へ行き、家人を皆殺しにしたという。

『奇異雑談集』巻三の三「丹波の奥の郡に、人を馬になして売りし事」より


人が馬や牛に変えられる話は古くから見られ、たとえば平安時代の説話集『今昔物語集』には、三人の修行僧が四国の深山で迷い、近くの人家に泊めてもらったが、その家の顔が怖い主人と怪しげな法師によって二人の僧が馬に変えられてしまう……という内容のものがあります。(残り一人は顔怖主人の妻とその妹に助けられ人のまま生還する)
また丹後地域にも、京丹後市大宮町に同じタイプの話が伝えられています。
あらすじは、伊勢参り途中の若者三人が宿に泊まったが、その家の老婆が作った食事(老婆が使役する紙製の小人がこしらえた怪しげな蕎麦)を食べたことで二人が牛に変えられてしまい、食べなかった一人は「この宿で起こったことは誰にも言わない」と約束することで解放された……というものです。(『丹後の民話 第二集』)


伝承地:丹波のどこか(場所不明)

お堂の古狸

お堂の古狸 (おどうのふるだぬき)


昔、斎藤左衛門尉助康という侍が、丹波国へ行って狩りをしていた。
その内に日が暮れてしまったので、助康一行は近くにあった古いお堂で一夜を過ごそうと考えた。
するとこの辺りの事情に詳しい者が、「このお堂には人を襲って取り殺す妖怪がいると聞きました。そんな所に用心もなく気易く泊まるのはいかがなものか」と忠告したが、助康は「何の心配もない」と言ってお堂に泊まった。
やがて雪が降り出し、風も吹き始め、辺りは気味の悪い雰囲気に包まれた。
助康は柱にもたれかかって休んでいたが、ふと庭の方から何かが近づいて来る気配を感じ、障子の破れ目から素早く外を窺った。
外には、お堂の軒と同じくらいの背丈の大きな法師が立っていた。
だが黒々とした輪郭が見えるだけで、その姿ははっきりと視認出来なかった。
すると法師は、障子の破れ目から毛むくじゃらの細い腕をさし入れ、助康の顔を撫でた。
助康が座り直すと腕は引っ込んだが、しばらくするとまた同じように障子の破れ目から細腕をさし入れ、助康の顔を何度も撫で回した。
そこで助康はその腕を掴み、障子を引き外して広庇へ出ると、法師の上に馬乗りになった。
法師は軒と同じ高さに見えたが、今は随分と小さくなり、掴んだ腕も細くなっていた。
そのまま押さえつけると、法師はか細い声で泣き始めたので、下人に灯りを点けさせて正体を確かめたところ、それは一匹の古狸だった。
助康は「朝になったら村人たちに見せてやろう」と思い、その古狸を下人に預けて眠った。
ところがどうしようもないことに、下人は古狸を焼いて食べてしまい、助康が起きた頃には頭しか残っていなかった。
体がなくなってしまったので、助康は残された古狸の頭を村人たちに見せた。
それ以来、お堂に人を取る妖怪は出なくなったという。

『古今著聞集』巻第十七「斎藤助康、丹波国へ下向し古狸を生捕る事」より


伝承地:丹波のどこか(場所不明)

人間に交わる狐

人間に交わる狐 (にんげんにまじわるきつね)


昔、丹波国の某所に裕福な百姓の家があり、一人の老人が仕えていた。
老人は山の崖に穴居し、衣服も人と同じものを着て、食事も人と変わるところはなかった。
何年も百姓家に仕え、幼児の世話などをし、農事や家事を手伝い、遠い過去の話を語る様は人間とは思えなかった。
だが長い間一緒に生活していたので、百姓一家は老人を重宝し、怪んだり怖がったりする者はいなかった。
ある時、老人は家長の元を訪れ「私は何年も厚遇を受け、恩返しのしようもないが、この度仕官の為に上京することになったのでお別れを言いに来た」と話した。
家長をはじめ一家は驚き、「あなたがいなければ我が家は立ち行かなくなる」と強く引き留めたが、老人は「その願いは叶えられない」と断り、「もし私が恋しくなったなら、富士の森(京都伏見の藤森)に来て「おじい」と呼べば必ず出て来よう」と言って立ち去った。
百姓一家はそこで始めて、老人が狐であることを知った。
後日、家長は富士の森を訪れ、裏山で「おじい」と呼んだところ、老人が忽然と姿を現した。
二人は互いの安否を尋ね、とりとめのないことを語り合った。
そして別れ際、老人は「これまでの恩返しに、あなたの家の吉凶の兆しを前もって教えておこう。これから狐が三度鳴く時があるが、それはあなたの家に起こる吉事や凶事を予告するものだ。狐が三度鳴いたなら、身を慎んで吉凶の到来に心を備えなさい」と告げた。
老人の言葉通り、その後、百姓家では狐が三度鳴く度、吉事や凶事が起こったという。

『耳袋』巻之四「人間に交る狐の事」より


人に化けて読み書きを教える九州出身のインテリ狐。


伝承地:丹波のどこか(場所不明)

赤子を舐める女 / 虚空の声

赤子を舐める女 / 虚空の声 (あかごをなめるおんな / こくうのこえ)


昔、丹波猿楽師の男が臨月の妻と子供、弟子を連れて二十人程で京都へ向かっていた。
だが途中の山の中で日が暮れてしまったため、そこで夜を明かすことにした。
そして、その夜に子供が生まれた。猿楽師たちは喜びつつ夜明けを待った。
やがて薄らと夜が明けてきた頃、二十歳程の女が一同のそばを通りかかった。
猿楽師は彼女を呼び止め「どなたかは存じませんが、良い時に通りかかりました。この子供を抱いていてくれませんか」と頼み、女に赤子を任せて仮眠することにした。
だが、一同が寝静まると、女は抱いている赤子の頭をそろそろと舐め始めた。
目を覚ました猿楽師が見つめる中、女は赤子の全身を舐め尽くし、消してしまった。
驚いた猿楽師は他の者を起こしたが、その瞬間、何かわからないものが妻や弟子たちを掴み、虚空に飛び上がって行った。
猿楽師だけが残されると、虚空から「そこに残った男も捕まえろ」というしわがれた声が響いた。
しかし女が「この男は脇差を差しているので捕まえられない」と答えると、再び虚空から「捕まえられないなら見逃してやれ」という声がした。
すると女はどこかへ消え失せ、虚空の声も聞こえなくなった。猿楽師だけが一人、残されてしまった。
程なくして夜が明けたが、不思議なことに、時刻は午後四時を回っていたという。

『諸国百物語』「丹波申楽へんげの物につかまれし事」より

  • ライブドアブログ