丹波・丹後の妖怪あつめ

京都府北部(丹波・丹後地域)の怪異妖怪伝承を紹介するブログです。

幽霊

椎の木の古狸

椎の木の古狸 (しいのきのふるだぬき)


昔、等楽寺と堀越の間の道端に二本の椎の木があった。
そこは化け物が出ると言われており、夜に通ると大入道が立っている、向かい側の松の梢に青白い灯が灯る、赤子の泣き声が聞こえる、椎の木の葉がぱらぱらと鳴って砂が撒かれるなど、度々不思議なことが起こっていた。
日中でも、魚売りが見慣れぬ茶屋の綺麗な番頭に誘われて休憩したところ、いつの間にか茶屋も番頭も消え、荷物の魚が全てなくなっていたということがあった。
これは全てこの辺りに棲む古狸の仕業だと言って、人々は通るのを嫌がっていた。
そんなある日、平谷村の重兵衛という若者が化け物の話を聞き、腰に刀をさして退治に向かった。
そして椎の木まで来ると、その片方に登り、枝に座って化け物が現れるのを待つことにした。
だがいつの間にか眠ってしまい、重兵衛は木の下から自分の名を呼ぶ声で目を覚ました。
既に辺りは暗くなっており、下からは「重兵衛や。母の具合が悪いから帰って来い」という声が聞こえてきた。
重兵衛はいよいよ化け物が出たと思い、「誰が帰るものか。俺のお母は元気でぴんぴんだい」と言って降りようとしなかった。
声はその後も「母の死に目に会いたくないのか」と呼び続けたが、重兵衛は黙って無視していた。
すると遠くから鉦の音と共に葬式の行列が現れ、椎の木の下に墓を建て、灯籠を置いて去って行った。
しばらくして灯籠の灯りが消えたかと思うと、白いものがちらりと見え、それが六尺(約1.8m)もある幽霊になった。
幽霊は髪を振り乱し、目をギロギロと光らせながら、重兵衛のいる枝目がけて軽やかな動きで登ってきた。
そして細い手を伸ばして掴みかかってきたので、重兵衛はすかさず刀を抜いてその手を斬りつけた。
すると幽霊は落下し、そのまま消えてしまった。
夜が明けてから木の下を見ると、大きな古狸が両手を斬られて死んでいた。

重兵衛はその古狸の死体を村ヘ持ち帰り、狸汁にして村の皆に振舞おうとした。
ところが夏だったこともあり、臭いがひどくて食べられず、死体は草原に埋められた。
するとその翌年、古狸を埋めた所から触ると嫌な臭いを出す臭木が生えてきた。
人々は「きっと狸の妄念から生えてきたのだ」と言って、臭木を鎌で刈り取ったが、再び芽を出し、生長して嫌な臭いを放つ白い花を咲かせた。
そして方々に実をまき散らし、山や草原に沢山の臭木を生やしていった。
今も平谷から椎の木の辺りには多くの臭木が生えており、人々に嫌がらせをしているという。

『丹後の民話 第三集 ふるさとのむかしばなし』「古狸とくさ木」より


以前に紹介した“周枳峠の化け物”と同じタイプのお話ですが、こちらは化け物の正体である古狸を退治した後に嫌なエピソードが追加されています。
死してなお臭木を生やして人々に嫌がらせをする狸の執念たるや。
ちなみに重兵衛の出身地の平谷村は、ある大雪の春に起こった雪崩で村人全員が生き埋めになり、村ごと消滅したという伝説があります。切ない。


伝承地:京丹後市弥栄町等楽寺


子育て幽霊

子育て幽霊 (こそだてゆうれい)


ある夏の深夜、氷上町石生のトラック運転手が但馬の柴(兵庫県朝来市)の外れで若い女を乗せた。
ところが丹波の青垣町へ抜ける遠坂トンネルに入ると、いつもより冷気を感じ、前方に燐火が飛んで行くのが見えた。
トンネルを抜け、遠坂集落の灯りが見える所で女を降ろすと冷気はなくなった。
その後、女は秋の初めまで強い夕立があった日の深夜に限って現れ、運転手は但馬から丹波まで乗せて行った。
この女は遠坂に嫁いでいたが、子を身籠ったまま離縁され、柴で男児を産んで死んだ。
男児は丹波の女の実家に引き取られたため、夜な夜な但馬の墓から我が子の元へ乳を飲ませに通っていたのだという。

『現代民話考[3] 偽汽車・船・自動車の笑いと怪談』「子育て幽霊」より


運転手は女が幽霊だと気づいていたんでしょうか。
気づいていながら乗せていたんだとしたら……運転手の度胸と優しさは天井知らずですね。

タクシーを利用するお姫様


伝承地:丹波市青垣町遠坂-朝来市柴


塩見大膳守の霊魂

塩見大膳守の霊魂 (しおみだいぜんのかみのれいこん)


猪崎城は塩見大膳守という武将の居城だったが、明智光秀の攻撃により落城し、大膳守は討ち死にした。
そのため、猪崎の塩見株の人々は仇である明智光秀を祀る御霊神社には参拝しないという。

猪崎城址には二つの稲荷神社があったが、ある時、その内の一社・福本稲荷を福知山城内の朝暉神社の側社にしたいという話が持ちかけられた。
そこで神社の世話役たちは稲荷堂に集まり、社の移祀に応じるべきか相談することにした。
だが世話役たちが神前の三方に灯明を灯し、相談を始めたところ、急に灯明の火が消えてしまった。
隙間風だと思い、すぐに点火して相談を再開したが、しばらくするとまた灯りが消えた。
世話役たちは不思議に思いながらもう一度火を点けたが、三度目もまた同じように消えてしまった。
一同が愕然とする中、長老は「この社は塩見大膳守によって祀られたものだから、仇敵の明智光秀の城へ行くことは神様も納得していないはずだ。神霊が反対表明をしたに違いない」と言った。
すると他の世話役も「大膳守の霊魂が灯明を吹き消して反対の意を示したに違いない」と言って、一同は社の移祀に応じないことを決めたという。

『猪崎の伝説と民話』「猪崎城の没落と女﨟池・小屋ケ谷の伝説」より


福本稲荷神社
福本稲荷神社。
福知山城内に移祀されることなく、今も猪崎城趾の中腹に祀られています。
古い石灯籠や狛犬の台座には大正時代の芸妓や店の名前が彫られていました。歴史を感じる。
(猪崎には昭和初期まで遊郭があった)



伝承地:福知山市猪崎


山伏ぐろ

山伏ぐろ (やまぶしぐろ)


江戸の終わり頃、ある山伏が谷川村を訪れたが、そこで病にかかり死亡した。
村の定めで墓地に葬ることが出来ず、山伏は桜ノ木という空き地に埋葬され、縦6~7m、横4~5m、高さ2m程の小高い塚が作られた。
谷川村ではこれを“山伏ぐろ”と呼び、塚に生い茂った木を切れば山伏の祟りがあると言って誰も切らなかった。
だが明治の終わり頃、ある木樵が「祟りなんて迷信だ」と言って、塚の木を何本か切り倒して薪にした。
するとその夜から木樵は高熱を出し、毎夜山伏の亡霊にうなされ苦しんだ。
家族や近所の人々が塚に参って非礼を詫びると、木樵の熱は下がり快復したという。
それ以来、塚の木を切る者はいなかったが、昭和の頃、工場の敷地造成で塚は取り払われてしまった。
だが、山伏の霊を弔う法要は毎年行われているという。

『山南町誌』「山伏ぐろ」より


「山伏ぐろ」は「山伏の塚」みたいな意味合いだと思います。
(「ぐろ(畔・壠)」=「小高い所」「物を積み重ねた所」)


伝承地:丹波市山南町谷川

上臈池の亡霊

上臈池の亡霊 (じょうろういけのぼうれい)


戦国時代、猪崎の高台に城があった。
だがある時、隣の城の軍勢に攻め込まれ、猪崎軍は全滅、城主も討ち死にした。
城主の奥方と幼い娘は城から落ち延びたが、国境の三坂峠で追手に捕らえられた。
そして奥方がお茶用の湯の水として使っていた上臈池(女臈池とも)の畔で首を切られ、池は二人の血で真っ赤に染まった。
その夜、隣の城では勝利を祝う宴が盛大に開かれたが、深夜になった頃、突然、一人の侍が悲鳴を上げて腰を抜かした。
その侍は奥方と娘を斬首した者で、手にした杯の酒が真っ赤な血の色に染まっていた。
侍だけでなく、大将の杯の酒も血が滲んだように赤く染まっており、宴の席は騒然となって皆我先に逃げ帰った。
それ以来、隣の城では奇妙なことが続き、大将も家来も原因不明の病で次々に死んでいった。
更に真夜中になると、上臈池に上臈姿の亡霊が出て、柄杓で水を汲む音をさせるようになった。
村人たちは哀れに思い、上臈池の畔に祠を建てると亡霊は現れなくなったという。
また、上臈池には腹の赤いイモリ(アカハライモリ)が棲んでいるが、これは奥方の血で染められたのだと言われている。

『福知山の民話と昔ばなし集』「上臈池(女臈池)」より


『京都 丹波・丹後の伝説』では、「敵軍の酒宴で杯の酒が赤く染まった時、壁に血で“よくも娘まで”と殴り書きされていた(後に敵将を憎む猪崎の村人の報復行為と判明)」「赤く染まった酒にビビって逃げ出した侍たちが上﨟池まで来ると、水面に奥方と娘の亡霊が立っていた」と、幾つかの怪異エピソードが追加されています。

その他、「猪崎城に潜入していた女スパイが捕まり、上臈池で斬首されてから、池に棲むドジョウの腹が赤くなった」という話も伝えられています。(『猪崎城山 橘城主とその奥方にまつはる伝説の跡を尋ねて』)


伝承地:福知山市猪崎(上臈池は現存していない)


六部の祟り

六部の祟り (ろくぶのたたり)


昔、木津の松ヶ崎という所に六部(巡礼僧)が住んでいた。
六部は伊予国の武士だったが、ある時、原因不明の病を患い、占い師に占ってもらったところ「五つ辻のある土地に住みなさい」と告げられた。
そして武士は六部となって各地を渡り歩き、遂に木津の松ヶ崎で五つ辻を見つけ、家族と共に移住したという。
同じ頃、村に松本新助という強欲で乱暴な長者がいた。
ある時、新助は六部が金を貯めこんでいることを知り、平五郎という村人を使って財産を奪う計画を立てた。
平五郎は村一番の権力者の新助に逆らうことが出来ず、渋々企てに協力した。
ある日、平五郎は六部の家を訪ね、所持している刀などを見せてほしいと頼み、六部が席を外した隙に刀の目釘を外しておいた。
その数日後、平五郎は六部と新助を自宅に招くと、六部に強引に酒を勧め、酔い潰れたところを新助が刀で斬りつけた。
だが六部はその一撃をかわし、咄嗟に自分の刀を抜いて応戦したが、平五郎によって目釘を抜かれていたため、刀は使い物にならなかった。
六分はやむなく外へ逃げ出したが、足を踏み外して転倒し、追ってきた新助に肩を斬り落とされた。
六部は「何の怨みがあって斬るのか、その理由を言え。私は命が欲しい為に、遥々この地に来て療養しているのだ。ここで死ぬのは残念である。きっと悪霊となって、貴様の家を代々祟ってやる」と言って息絶えた。
そして新助は六部の死体を始末すると、更にその家族も殺し、財産を奪って引き揚げた。
だがその後、六部が殺された卯年になると、松本家に幽霊が出るという噂が立ち、家族や使用人が変死するなど、良くないことが続いた。
流石の新助も祟りを恐れ、屋敷内に祠を建てて六部一家七人の霊を祀り、毎朝欠かさず赤飯を炊いて供えたという。
その祠は「七社の明神」と呼ばれている。

『ふるさとのむかし 伝説と史話』「松ヶ崎の六部さん」より


ちなみに、六部が肩を斬り落とされた所は「カタナシ」と呼ばれていたそうです。物騒な地名。


伝承地:京丹後市網野町木津


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