丹波・丹後の妖怪あつめ

京都府北部(丹波・丹後地域)の怪異妖怪伝承を紹介するブログです。

怪異

宮津の妖

宮津の妖 (みやづのあやかし)


昔、丹後国宮津の須磨屋忠介という絹商人の家に、源という中年の糸繰り女がいた。
源は成相の近くにある伊称という村の出身で、幼い頃に父を亡くしてからは母の手ひとつで育てられた。
源が三、四歳の頃、伊称の村に巡礼僧が訪れ、昼は物乞いをし、夜は源の家の庭に筵を広げ、門の敷居を枕にして寝起きしていた。
僧は日暮れから朝遅くまで眠るので、夜は外へ出られず、家を訪れる者は遠慮して中へ入らなくなった。
だが源の母は嫌がる素振りも見せず、僧を快くもてなしていた。
ある日、僧は母に「もてなしてくれたお礼をしたいが恩返し出来るようなことがない。ただ、どうやらこの家には度々妖怪が現れているようだ」と言った。
母は僧に対し「この家だけではありません。伊称の村は海にさし出た島先にありますが、向かいの沖に見える中の島から妖しいものが渡って来ては村人を悩ましています。私の夫が早死にしたのもこの物怪の仕業でしょう」と語った。
すると僧は「これまでのご恩返しにこの家を災いから救いたい」と申し出て、火を焚き、水を浴びた後、したためた呪いの札を囲炉裏で焼き上げた。
すると間断なく雷が鳴り響き、激しく降り出した大雨が中の島へ向かったように見えた。
やがて雲が晴れ星の光が見えるようになると、僧は「これでしばらくは家に妖しいものは来ない。だが残念なことに悪鬼を一体逃してしまった。これより二十年後、この家に災いが起こるだろう。その時はこの札を火にくべて焼けば妖怪の根源を絶ち、子孫も繁昌するはずだ」と言って、赤い文字が書かれた鉄の札を母に渡した。
そして僧は旅立ち、二度と帰ることはなかった。

時が経ち、源は二十三、四歳になった。
源は容姿端麗で心優しい性格に育ったため、村人たちから恋い慕われていたが、母は普通の人にはもったいないと思い、嫁がせず大切にしていた。
ある日、大内某という五十歳ばかりの醜い容姿の貴族が物見遊山の帰りに丹後を訪れ、伊称の村に滞在した。
そこで大内某は源に一目惚れし、毎夜宿に母を呼び出しては娘のことを聞き出して都へ連れ帰ろうとしたが、色よい返事を聞けずにいた。
そんな中、大内某はかつて巡礼僧から貰ったという鉄札の話を聞き、母に札を見せてほしいと頼んだ。
母は札を大事にしていたので別に作った偽の札を渡したところ、大内某は急に「源を私にくれ」としつこく言い寄ってきた。
それでも母が断ると大内某は怒り狂い、「家中を捜して娘を見つけ出せ。都へ連れ帰るぞ」と家来に命令し、源を連れ去ろうとした。
母は大内某の非道を嘆くばかりだったが、ふと思い立ち、僧から貰った鉄札を火にくべて焼いた。
すると雷鳴と共に大雨が降り出し、雷が家の向かいの磯に落ちたように見えた。
やがて雨は上がり、夜が明けてから見ると、大内某ら都人は皆、衣服を着た古猿に変わっていた。
この古猿たちの持っていた道具はいずれもこの世の物ではない金銀の類だったので、宮津の成相寺の宝倉に収められたという。

『御伽百物語』「宮津の妖」より


都人に化けた古猿たちは、二十年前に僧が取り逃がした悪鬼だったのでしょうか。


伝承地:宮津のどこか(伊根町?)

なえ

なえ


深山幽谷には山怪が棲み、時々人里に出ては女と交わり、生まれた子を山へ連れ帰るという話がある。

昔、丹後国三石村に吉右衛門という男がいた。
ある時、吉右衛門の女房は異体のものと交わる夢を見て、それから妊娠して一人の男児を産んだ。
ところが、その男児は生まれつき体が萎えており、成長しても立ち上がることが出来ず、言葉もはっきりと話せなかった。
三石村では子供が生まれると他人に名を付けてもらい、その名付け親が生きている間は毎年、歳暮の祝いとして米一俵を送る習わしがあった。
だが男児は不具だったので誰にも名前を付けてもらえず、ただ“なえ”と呼ばれていた。
なえが十四歳の年の暮れのこと、彼の両親は「他の子供たちは皆名付け親の元に米を届けに行くというのに、お前は不具に生まれ名付け親さえなく、私たちの足手まといになっている。早く死んで次は常人に生まれてくれ」と呟いた。
すると、なえは父に向かい「私にも米俵をくれ。名付け親に持って行くから」と言った。
父は「お前にどこの誰が名を付けると言うんだ」と嘲笑ったが、それでもしつこく要求するので、米一俵を庭に運び、「一間(約1.8m)も歩けない体のくせに、どうやってこの俵に手をかけるんだ。望み通りお前にくれてやるから名付け親に持って行け」とからかった。
ところが、なえはとても嬉しそうな顔をして立ち上がると、つかつかと俵に歩み寄って軽々と抱え上げ、後ろも見ずに家を出て行った。
両親は「なえは立つことすら出来ないはずなのに、重い俵を苦もなく担いで出て行くとはどういうことだ。それに、なえは一体どこへ向かったんだ」と大いに驚き、吉右衛門はなえの跡を追った。
なえは飛ぶようにして道を進み、二十町(約2.2km)程歩いたところで山に入ると、山奥にある大池まで駆け登った。
その大池は昔から主が棲んでいると言われており、そのために小魚さえ獲る者もなく、青々とした深淵になっていた。
なえは平地を歩くように水面をするすると進み、池の真ん中まで行って直立し、担いでいた俵を水中へ投げ落とした。
それと同時に空がかき曇り、篠を突くような雨が降り注いだかと思うと、池の水が逆立ち、なえは立ったまま水底に沈んで行った。
吉右衛門は驚き、転がりながら山を下りたが、麓まで来ると今まで暗かった空は晴れ渡り、雨が降った形跡はどこにも見られなかった。
その後、吉右衛門の家になえの障りはなかったという。

『怪談藻塩草』四之巻「池の霊子を生る話」より


吉右衛門の女房が夢でまぐわった異体のものは大池の主で、なえはその間に生まれた子供だったんですね。
なえは祝いの米を手土産に水底の親元へ帰って行ったんでしょうか。

『怪談藻塩草』…寛政十三年(1801)に浮世絵師&読み本作の速水春暁斎が出版した怪談集。挿絵も春暁斎が描いている。多才。


伝承地:丹後のどこか(三石村の正確な場所は不明)

軍人山の洞穴

軍人山の洞穴 (ぐんじんやまのどうけつ)


天正年間、丹波亀山城は明智光秀軍の攻撃を受けた。
戦火を逃れた奥方や敗残兵たちは、敵の目から逃れるために軍人(神)山に洞穴を掘り、そこで穴居生活を営んだという。
その後、洞穴は長い間封鎖されていたが、ある時、石扉を開けて中へ入った人がいた。
するとその人は急に目を回して血を吐き、胸が苦しくなってその場に卒倒したという。

『我が郷土富本村』「軍人山旧忠魂碑裏の洞穴」より


軍人(神)山は鎌倉時代の武士・青砥藤綱が死んだ場所とも伝えられています。

ちなみに参考資料では「人が倒れたのは洞穴内に籠もっていた炭酸ガスのせいだろう」と考察されています。
二酸化炭素中毒って吐血するんでしょうか。


伝承地:南丹市八木町刑部・多国山?


変化の玉章

変化の玉章 (へんげのたまずさ)


丹後国宮津藩の藩主・京極氏に美しい娘がいた。
ある春の日、娘は侍女を連れて藩内の小さな島へ行き、珍しい景色を楽しんだり春草を摘んだりして寛いでいた。
するとどこからか錦襴の襟の袖なし羽織を着た高貴な小坊主が現れ、娘に結び文を差し出した。
侍女たちは口々にたしなめたが、小坊主は「これを読めば理解出来ます」と言って強引に文を渡し、たちまち姿を消した。
怪しみつつ文を検めると、その内容は文字も美しい高尚な恋文で、娘に対する想いが綴られていた。
ただ送り主の名は書かれておらず、最後に「この想いを叶えなければ恐ろしい目に遭わせる」と書き添えてあった。
皆はうすら寒い気持ちになり、魔除けの呪文を唱えて娘を守りながら、足早に船に乗り込んで島を後にした。
館へ帰った後、両親に島での出来事を話すと、京極氏は「この館の北の森には古い獣が棲み怪事を起こしていると聞く。島の出来事もこの獣の仕業だろう」と語った。
そして屈強な部下に命じ、北の森に向けて蟇目の矢を射させたところ、森の中からドッと大きな笑い声が響き、射た矢が束ねられて投げ返された。
それを見た人々は「これはどうしようもない」と途方に暮れ、矢を射ることを止めた。

その夜から、娘の周りで怪事が起こり始めた。
ある夜は厠に凄まじい悪臭が立ち籠め、近寄ることも出来ず、どれだけ香を焚いても紛れることはなかった。
またある夜はさらに酷く、大量の汚物が床にうずたかく積まれていた。
この有様に館の人々は困り果て、京極氏は「方違いをすれば怪事も収まるのではないか」と考え、新しい御殿を建て、そこに娘を移し選び抜いた精鋭に警護させた。
更に修験者に休む間もなく祈祷をさせ、加持の僧が厳めしい祭壇を据えたところ、一夜、二夜と何も起こらなかった。
だが人々が安心したのも束の間、やがてまた怪事が起こった。
ある時は三人、または五人の侍女たちの髪の毛がより合わされ、網のように固く組まれることがあったが、誰も結ばれていることに気づかなかったという。
怪事が増すにつれ、侍女たちの退職が相次ぎ、遂に宿直の者すら足りなくなる始末だった。
そんなある日、小枝(ささえ)元斉という儒学者が京極氏に「怪事を収める手段は尽きたように思われますが、一つだけ残されています。成功するかわかりませんが、私にお任せ下されば尽力致します」と進言した。
そして元斉は物忌みをして北の森へ向かうと、うやうやしい態度で弓を射かけた無礼を謝罪し、「京極家は武家なので、霊に娘を取られたと噂されることは後世までの恥になります。娘のことを諦めて下さるならば、代わりにどんな願いでも叶えましょう」と丁寧に頼んだ。
すると森の主と思われる者が角髪(みずら)の童子となって現れ、ニッコリと笑い、「この度はそちらの態度に腹を立て数々の怪事を起こしていたが、そこまで謝るのならば許してやろう。特に願い事はないが『踊り』というものが面白いと聞いているので、それを所望する」と答えた。
元斉は急いで館に戻り、京極氏にその件を申し伝えると、館内は生き返ったように喜びに湧いた。
早速、京極氏は領内に命じて踊り手の男女を集め、更に家臣からも若い男を参加させた。
そして風流を尽くした装いの人々が若狭国の境の「えいけいじ野」という広場に集まり、桟敷を架け渡し、霊の座を設えて清め、二十日余りも面白く舞い踊った。
その間の四、五日程は美しい童子が霊の座に見えていたが、その内に姿を消したので、人々はそこで踊りを止めた。
この踊りが通じたのか、以来、娘の周りで怪事は起こらなくなったという。

『万世百物語』巻一「丹州に変化の玉章 時ならぬ踊興行」より


「娘をくれなきゃ怖い目に遭わすぞ」と匿名の手紙で脅し、拒否されたら嫌がらせをして精神的に追い込むやり口。陰湿だ……。


伝承地:宮津市鶴賀


縮むお堂

縮むお堂 (ちぢむおどう)


中世木の念仏寺のお堂は、一本の大木を使って建てられたという。
天正年中、明智光秀は丹波亀山城の築城のため、このお堂の材木を利用することにした。
ところが、木の尺を測り、「明智」の刻印を捺し、いよいよお堂を壊そうとした時、材木がことごとく一寸(約3cm)余りも縮んだ。
これを見た光秀は作業を中止し、念仏寺は破壊を免れたという。

『船井郡名勝史蹟案内 第一号』「念仏寺」より


念仏寺のお堂の材木には、今も「明智」の刻印が残っているそうです。


伝承地:南丹市日吉町中世木・念仏寺

人杖

人杖 (ひとづえ)


谷内から周枳に流れる周枳井溝は、寛文八年(1668)から四年余りを費やして作られた水路である。
だが工事が竣工し通水となった時、三坂境のしょうが鼻(干潮ヶ鼻)までは通じたが、その先は流れなかった。
設計ミスはなく、高低も問題がないのにどうしても水が流れない。
かくなる上は神力に縋るしかないと考え、村人全員を集め、声を揃えて「さあ越せ、さあ越せ」と叫んだ。
すると水は堰を切ったように越し始め、周枳まで流れたという。
それ以来、周枳井溝の水が絶えたことはなく、この出来事は“人杖”と呼ばれ言い伝えられている。

『大宮町誌 本文編』「人杖」より


人杖ってどういう意味なんだろう……?
「杖」は「頼りとするもののたとえ」(『広辞苑』)という意味があるので、人杖=「人の力は頼りになる!」みたいなニュアンスなんでしょうか。

周枳井溝は寛文十二年(1672)に完成した谷内~周枳を流れる田圃用の水路で、幅最大約1.8m、延長4,800mという大規模なものでした。
ですが昭和五十九年(1984)の圃場整備工事により統合・廃止され、今はもうほとんど残っていません。(『周枳郷土誌』)

周枳井溝
現存する周枳井溝の水路。
周枳公民館の裏手にあり、茂った草の下に細い水路が通っています。
今も田圃用の水路として使われているようです。


伝承地:京丹後市大宮町周枳

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