丹波・丹後の妖怪あつめ

京都府北部(丹波・丹後地域)の怪異妖怪伝承を紹介するブログです。

明智光秀

軍人山の洞穴

軍人山の洞穴 (ぐんじんやまのどうけつ)


天正年間、丹波亀山城は明智光秀軍の攻撃を受けた。
戦火を逃れた奥方や敗残兵たちは、敵の目から逃れるために軍人(神)山に洞穴を掘り、そこで穴居生活を営んだという。
その後、洞穴は長い間封鎖されていたが、ある時、石扉を開けて中へ入った人がいた。
するとその人は急に目を回して血を吐き、胸が苦しくなってその場に卒倒したという。

『我が郷土富本村』「軍人山旧忠魂碑裏の洞穴」より


軍人(神)山は鎌倉時代の武士・青砥藤綱が死んだ場所とも伝えられています。

ちなみに参考資料では「人が倒れたのは洞穴内に籠もっていた炭酸ガスのせいだろう」と考察されています。
二酸化炭素中毒って吐血するんでしょうか。


伝承地:南丹市八木町刑部・多国山?


塩見大膳守の霊魂

塩見大膳守の霊魂 (しおみだいぜんのかみのれいこん)


猪崎城は塩見大膳守という武将の居城だったが、明智光秀の攻撃により落城し、大膳守は討ち死にした。
そのため、猪崎の塩見株の人々は仇である明智光秀を祀る御霊神社には参拝しないという。

猪崎城址には二つの稲荷神社があったが、ある時、その内の一社・福本稲荷を福知山城内の朝暉神社の側社にしたいという話が持ちかけられた。
そこで神社の世話役たちは稲荷堂に集まり、社の移祀に応じるべきか相談することにした。
だが世話役たちが神前の三方に灯明を灯し、相談を始めたところ、急に灯明の火が消えてしまった。
隙間風だと思い、すぐに点火して相談を再開したが、しばらくするとまた灯りが消えた。
世話役たちは不思議に思いながらもう一度火を点けたが、三度目もまた同じように消えてしまった。
一同が愕然とする中、長老は「この社は塩見大膳守によって祀られたものだから、仇敵の明智光秀の城へ行くことは神様も納得していないはずだ。神霊が反対表明をしたに違いない」と言った。
すると他の世話役も「大膳守の霊魂が灯明を吹き消して反対の意を示したに違いない」と言って、一同は社の移祀に応じないことを決めたという。

『猪崎の伝説と民話』「猪崎城の没落と女﨟池・小屋ケ谷の伝説」より


福本稲荷神社
福本稲荷神社。
福知山城内に移祀されることなく、今も猪崎城趾の中腹に祀られています。
古い石灯籠や狛犬の台座には大正時代の芸妓や店の名前が彫られていました。歴史を感じる。
(猪崎には昭和初期まで遊郭があった)



伝承地:福知山市猪崎


藤の森

藤の森 (ふじのもり)


昔、市島町矢代の国道175号線沿いに“藤の森”という蔦を絡ませた藤の茂みがあった。
過去にはこの藤を切ろうとした人もいたが、その度に怪我をしたり急病になったり火事に遭ったり、果ては一家三人が続けて死亡するなどの不幸に見舞われたので、誰も近づかなかった。
これは天正七年(1579)、明智光秀の侵攻によって黒井城(赤井氏居城)が落城した時、明智方の手引きをした村人一家三人が赤井軍の残党にこの地で惨殺されたためだと言われている。
また一説には、赤井軍の落武者七人がこの地で生き埋めにされ、その内の一人が持っていた法華経の経文の心が、死者の恨みと共に藤に乗り移ったとも言われている。
そのため昭和三十四年(1959)、大乗寺の伊藤妙降という尼僧が藤の供養を始めたという。
一方、昭和五十九年(1984)、広島県呉市の井上夫妻が大日如来のお告げを受け、この地に移住した。
そして役場の許可を得て藤の茂みを切り払い、祠を建て「藤乃院」と刻んだ黒御影石を祀ると、それから祟りは起こらなくなったという。

『兵庫の怪談』「藤の森」より


井上夫妻は「藤の森を放置していては落武者の霊も浮かばれないだろうから、退職金をつぎ込んで整備した」と語っていたそうです。すごい信心。

ちなみに本文では「赤井軍の落武者七人がこの地で生き埋めにされた」とありますが、氷上郡の郷土本『多利郷土誌』ではちょっと違った話が語られています。
戦国時代、黒井城の麓に「橋爪」と名乗る金造師の一団がいて、ふじ乃という老婆をリーダーに据え、採鉱で生計を立てていました。
ですがある時、ふじ乃は明智方のスパイに黒井城の秘密の水源地を教えてしまい、城は水の手を止められて落城しました。
赤井軍の残党は落城の原因がふじ乃であることを知り、橋爪の一団を皆殺しにした後、ふじ乃を含む家族七人を生き埋めにしました。
ふじ乃らが生き埋めにされた所が市島町矢代の国道175号線沿いの「藤の森」(または「藤塚」)で、そこを触れば祟りがあると言って長い間恐れられていたそうです。


藤の森
藤の森。
国道沿いの一角に小さな祠と地蔵が祀られています。
この辺りに藤の茂みがあり、昔は「藤の森の写真を撮れば亡霊たちの恨めしげな顔が写り込む」なんて噂されていたそうです。
祠の前には「藤乃院」と刻まれた小さな石柱が建てられています。
見た感じ黒御影石ではなく普通の御影石っぽいですね。作り替えられたのかな。


伝承地:丹波市市島町矢代


縮むお堂

縮むお堂 (ちぢむおどう)


中世木の念仏寺のお堂は、一本の大木を使って建てられたという。
天正年中、明智光秀は丹波亀山城の築城のため、このお堂の材木を利用することにした。
ところが、木の尺を測り、「明智」の刻印を捺し、いよいよお堂を壊そうとした時、材木がことごとく一寸(約3cm)余りも縮んだ。
これを見た光秀は作業を中止し、念仏寺は破壊を免れたという。

『船井郡名勝史蹟案内 第一号』「念仏寺」より


念仏寺のお堂の材木には、今も「明智」の刻印が残っているそうです。


伝承地:南丹市日吉町中世木・念仏寺

葦原の白蛇

葦原の白蛇 (あしはらのしろへび)


天正三年(1575)九月十九日、黒井城の城主・赤井直正は丹波に侵攻した明智光秀軍と交戦していた。
やがて赤井軍は退却を装い、明智軍を黒井の葦原の沼地に誘い込んで一気に殲滅しようとした。
するとその時、黒井城から放たれた伝達の矢文が葦原の中に落ちた。
両軍は矢文を得ようと葦原の中へ入って探したが、どこにも矢文はなく、踏み荒らされた葦の上に真っ白な蛇がうずくまり、明智軍に向かって鎌首をもたげていた。
白蛇に驚いた明智軍は逃げ出し、赤井軍は「これこそ明神の化身に違いない」と士気を上げた。
そして赤井軍の猛攻により明智軍は壊滅し、光秀は近江の坂本城まで敗走した。
その後、赤井軍は白蛇が現れた葦原に、葦原明神の祠を建てたという。
この祠には、代々白蛇が棲むと言われている。

『春日町誌 第四巻』「黒井の葦原明神」より


葦原明神の祠
葦原明神の祠。
工場と住宅の間の狭い路地にひっそりと祀られています。
おもちがお供えされていました。


伝承地:丹波市春日町黒井

鍬山神社の神罰

鍬山神社の神罰(くわやまじんじゃのしんばつ)


矢田郷の医師・坂上康頼は鍬山神社(矢田神社)の祭神を崇敬し、その神助を得て「医王」と称される名医になった。
反対に、鍬山神社に不遜な行いをしたことで神罰を受けた者もいた。
矢田五郎という男は神社の祭壇に登り神面(*)を仰ぎ見たところ、たちまち目が眩み、鼻血を出して階下に投げ出され、口が利けなくなったという。
また野崎五郎というキリスト教徒は「鍬山神社の神もキリスト教徒には敵うまい」と言って神面を取り出すと、目が眩んで倒れ、後に皮膚病を患って死んだという。
更に明智光秀が逆臣として百姓に殺されたのは、亀岡に来た際に鍬山神社の神田を没収し、社殿を破壊したことが原因とも言われている。

『丹波の伝承』「矢田神社の神徳と神罰」より


(*)天岡山の影向石に舞い降りた二つの面を鍬山神社の社宝にしたという伝承があります。その面のこと?

坂上康頼は平安時代の医者で、日本最古の医学書「医心方」を書いた人物と言われています。(『新編 桑下漫録』)
そして彼が住んでいた矢田郷は「医王」の称号に因んで「医王谷」と呼ばれるようになりました。
現在も亀岡市下矢田町には「医王谷」という地名が残されています。
また矢田判官義清という人も鍬山神社の祭神を深く崇敬していたので、神助によって家が繁栄したと伝えられています。
鍬山明神は霊験あらたかですね。

鍬山神社には鍬山明神と八幡明神が祀られていますが、二神は非常に仲が悪く、使いの兎と鳩が夜な夜な代理戦争を繰り広げる話があります。


伝承地:亀岡市上矢田町・鍬山神社


  • ライブドアブログ