丹波・丹後の妖怪あつめ

京都府北部(丹波・丹後地域)の怪異妖怪伝承を紹介するブログです。

河童

ガアタロ

ガアタロ


昔、野田川によくガアタロ(河童)が出て、人の尻を抜いたり化かしたりしていた。
そのため、子供は川へ入らず、まじないに胡瓜を供えていた。
また、子供が水に溺れないためのまじないとして、「初めてとれた胡瓜を竜宮の乙姫様に上げます。家内一同水で不調法しませんように」と唱え、川に胡瓜を流すという。

『野田川町誌』「ミナヅキマツリ(水無月祭り)、カワソッサン」より


伝承地:与謝野町三河内(野田川)


ギャータロウ

ギャータロウ


伊根湾には“ギャータロウ”という海河童が棲んでおり、海の底から足を引っ張るという。
ギャータロウに足を引かれないようにするには、陸に上がる前に海へ向けて水をかけ、水が飛んだ場所まで泳いで戻って来る。
そして「海の神さん 親も子も流しませんように ほーいほい」と呪文を唱えるという。
ギャータロウの正体は、伊根湾に棲むワニ(鮫)とも言われている。

『海の京都 日本の源流ガイド』「ギャータロウ」より


かつて伊根の舟屋の子供たちは夏になると朝から海で遊んでいましたが、午後三時頃には「ギャータロウが出る」と言って陸に引き上げていました。
魚は日暮れになると餌を求めて動き出すので、大人たちは「ギャータロウが出る」と言って脅し、子供たちがワニなどの危険な生物に襲われないようにしていたそうです。
どうやらギャータロウは舞鶴市の“堤のガロン”と同じく、子脅しのために語られた妖怪っぽいですね。



伝承地:伊根町平田、亀島(伊根湾)


大手川のカッパ

大手川のカッパ (おおてがわのかっぱ)


宮津の大手川のそば(馬場先付近)に住む男性が、知人から聞いた話である。
その知人によると、昔、大手川にはカッパがいたという。
知人は「大手川のカッパは甲羅がなく、人間の子供のようだが、肌はピンク色だった。冬でも大手橋の下でバチャバチャと動いていて、それを見ていると「カッパなんか見るもんじゃない」とよく母親に叱られた」と男性に語ったという。

『みやづ・わが町』「私の好きな大手川とカッパ」より


この話を聞いた男性も子供の頃、母親に「ガータロに足を引っ張られるから大手川の深い所には行くな」と注意されていたそうです。


大手川
宮津市内の大手川と大手橋。
カッパはこの辺りでバチャバチャやっていたそうです。
ピンクの肌はすごく目立ちそう。

大手橋の下
大手橋の下。
濁っていて水底は見えません。
昭和の頃は葦が生い茂り、鰻や鯰、海老など多くの魚が棲んでいたそうです。カワウソもいたんだとか。


伝承地:宮津市鶴賀、馬場先付近(大手川)


がが太郎

がが太郎 (ががたろう)


昔、ある村人が小浜谷という所へ行くと、綺麗な色男が休憩していた。
色男はがが太郎(河童)で、村人に「橋本の永島家に綺麗な娘がいるので嫁に欲しい」と伝えた。
だが永島家の主人が「河童なんぞには嫁にやれん」と言って断ると、がが太郎は怒り、娘を川の中に引きずり込んで殺してしまった。
すると主人は怒り狂い、包丁を手にがが太郎の所へ直談判に行った。
がが太郎は鉄や刃物が怖いので、「和田野(弥栄町)から大山の志布比神社(丹後町)の間は荒らさないので許してくれ」と平謝りし、証文を書いて許しを得た。
その翌日から毎朝、がが太郎は永島家の戸口の竹の杭に色々な魚を刺しておくようになり、それが何年か続いた。
だがその内に竹が曲がってしまったので、鉄の杭に交換したところ、がが太郎は鉄を怖がり、それからは何も持って来なくなったという。

『京都の伝説 丹後を歩く』「がが太郎の詫び証文」より


がが太郎の淵跡

丹後町徳光・竹野川支流の小川。
昔、この辺りにがが太郎の棲む淵があったそうです。
竹野川が河川工事で改修される以前、川はこの付近で大きく湾曲し、深い淵となって渦巻いていました。
その淵で溺死した人もあったらしく、人々は「がが太郎に引きずり込まれたのだ」と言っていたそうです。

参考資料には他にもがが太郎の話が載っています。
ある時、徳光の淵に棲むがが太郎が永島家の娘に「嫁になれ」と直接求婚したところ、それを聞いた家の老婆が出刃包丁を咥えて淵に潜り、がが太郎に詫び証文を書かせた……という内容で、こちらも永島家の出来事として伝えられています。老婆強い。
この時がが太郎に書かせた詫び証文は、今も永島家に保管されているんだとか。

また、弥栄町と丹後町の境にもがが太郎の棲む深い淵があり、村人がその淵のがが太郎に「向こうの淵のがが太郎に手紙を届けてほしい」と頼まれ、途中で手紙を開いたところ「この手紙を持って来た奴を殺せ」と書いてあったので驚いて逃げ帰った……という「水の神の文使い(沼神の手紙)」タイプの話も伝えられています。


伝承地:京丹後市丹後町徳光


人取り川の河童

人取り川の河童 (ひととりがわのかっぱ)


昔、川北村の東に弥勒菩薩を祀る寺(川北の大園寺?)があり、すぐ北の街道に面して「北面の弥勒」と呼ばれるお堂が建っていた。
だが北面の弥勒の威光を畏れてか、荷を背負った牛馬がお堂の前まで来ると一歩も進まなくなるので、人々は困っていた。
また、お堂の南を流れる篠山川には橋がなく、人々は川の中を歩いて対岸に渡っていた。
だがその途中で、川に棲む大きな河童に取って喰われることがあり、旅人は無事に渡ることが出来たら、故郷へ「川北の人取り川を無事渡り終えました」という手紙を送る程だった。
そこで寺の住職は「北面の弥勒を南面に変えれば牛馬も問題なく通れるし、河童も弥勒様に睨まれて人を取らなくなるだろう」と考え、お堂を南向きに変えた。
するとそれからは牛馬も立ち止まることなく歩き、川の河童も大人しくなったという。

『親と子の ふるさと西紀の民話集』「人取り川と後堂」より


篠山川
篠山川(西紀大橋付近)
かつて篠山川は暴れ川で、橋がなかった頃は対岸に辿り着けずに溺死する人が多かったそうです。
ちなみに『郷土の民話(丹有編)』にも人取り川の話があります。
こちらは川北地区より上流の大山地区が舞台で、篠山川に棲む大蛇が洪水の度に大鯰や鯉、鰻などに変化して人を取っていましたが、ある商人の功徳によって心を改め、二度と人を取らないと誓い天に昇った……という話になっています。

後堂
川北の後堂。弥勒堂とも呼ばれています。
篠山川の近くにあり、街道(写真右側)を背にして建っていることから「後堂」と呼ばれています。


伝承地:丹波篠山市川北


滑らの河童 / 北山の豆狸

滑らの河童 / 北山の豆狸
(なめらのかっぱ / きたやまのまめだぬき)


昔、宮田川の滑らという深い淵に、悪戯好きの河童が棲んでいた。
河童は昼は淵で遊んでいるが、飽きると井堰まで来て村人をからかい、夜になると村境にある湫(ふけ)という竹藪の中で眠っていた。
また、近くの北山には悪戯好きの豆狸が棲んでいた。
豆狸は昼は天王の森で寝ているが、夕方になると街道に出て来て村人に悪戯をしていた。
こうして昼は河童、夜は豆狸と交互に悪戯されるので、村人たちは大変困っていた。

ある時、村一番の腕白坊主の庄吉は、河童と豆狸を懲らしめてやろうと考えた。
まず庄吉は滑らの水をせき止め、河童を退治しようとしたが、何日経っても淵の水は減らず失敗に終わった。
だが庄吉は挫けず、次は豆狸を退治する計画を立てた。
庄吉は「豆狸は酒が大好きだ」という祖父の言葉を思い出し、家から祖父が大切にしている一升徳利を持ち出して天王の森へ向かった。
そして酒を餌に待ち続けたが、豆狸は一向に現れなかった。
庄吉は暇を持て余し、酒を一口舐めてみたところ、あっという間に酔いが回り、徳利を抱えたまま眠ってしまった。
すると祖父が夢枕に立ち「豆狸を退治したいなら『小豆三升に米三升、合わせて供えてガーシャガシャ』という呪文を三回唱えるといい。河童も豆狸の親類みたいなものだから、この呪文を聞いたらいなくなるだろう」と告げた。
庄吉は夢から覚めた後、ふと天王の森を振り仰ぐと、小豆と米が三升ずつ載せられた三宝と、庄吉が抱えていたはずの一升徳利が神前に供えられていた。
それ以来、滑らの河童も北山の豆狸も姿を現さなくなったという。

『親と子のふるさと西紀の民話集』「北山の豆狸と滑らの河童」より


何故か参考書籍では河童&豆狸を退治するシーンが省略されていますが、おそらく庄吉は祖父のアドバイスを元に呪文を唱え、二匹を懲らしめることが出来たのでしょう。
それにしても、孫の夢枕に立って的確なアドバイスする祖父は一体何者なんだ……。


伝承地:丹波篠山市高屋、黒田


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