丹波・丹後の妖怪あつめ

京都府北部(丹波・丹後地域)の怪異妖怪伝承を紹介するブログです。

龍姫

龍姫 (たつひめ / りゅうひめ?)


敏達天皇(三十代)の皇子・円能という通力自在の法師が長老ヶ岳に来た時、ある民家で顔が猿そっくりの人に出会った。
その人は「私は允恭天皇(十九代)の末孫の齢貴仁という者です。この谷の奥にある洞窟で毎夜仏体が月日のように光り、地は鳴動して止まないので、どうかこれを鎮めていただきたい」と頼んだ。
翌日、円能はお供と案内役を連れて洞窟の奥へ向かうと、龍姫の霊体が鬼となって飛びかかってきた。
だが円能は少しも騒がす「止、歯、祠」と言うと、鬼はたちまち梟となって鎮まった。
円能が「何故この山に棲んでいるのか」と問うと、梟は頭を垂れ「妾は以前、広原海(わだつみ?)に棲んでいたが、孝安天皇(六代)の御代からこの地に来た。ここで千年の行をすれば天に昇って神になれると聞き、水神となって毎日行に励んでいる。どうか妾を祀って下さい」と言い終わると、恐ろしい龍に変化した。
そこで円能は「ここに棲むのであれば龍王と号し、五葉山龍王権現として崇めよう。今後は益々万民の安全を守るように」と言うと、龍は煙のように消え失せた。
その後、円能は龍姫との誓いを守り、仏体を刻んで洞窟の中に祀った。
これが長老ヶ岳の谷深くに祀られている龍王権現の由来であるという。

『和知町 石の声風の音』「長老山に関する伝説」より


長老ヶ岳は京丹波町と南丹市美山町にまたがる標高917mの山で、この山の権現谷という谷の洞窟に円能が彫った石仏が祀られているそうです。


伝承地:京丹波町仏主・長老ヶ岳


宮津の妖

宮津の妖 (みやづのあやかし)


昔、丹後国宮津の須磨屋忠介という絹商人の家に、源という中年の糸繰り女がいた。
源は成相の近くにある伊称という村の出身で、幼い頃に父を亡くしてからは母の手ひとつで育てられた。
源が三、四歳の頃、伊称の村に巡礼僧が訪れ、昼は物乞いをし、夜は源の家の庭に筵を広げ、門の敷居を枕にして寝起きしていた。
僧は日暮れから朝遅くまで眠るので、夜は外へ出られず、家を訪れる者は遠慮して中へ入らなくなった。
だが源の母は嫌がる素振りも見せず、僧を快くもてなしていた。
ある日、僧は母に「もてなしてくれたお礼をしたいが恩返し出来るようなことがない。ただ、どうやらこの家には度々妖怪が現れているようだ」と言った。
母は僧に対し「この家だけではありません。伊称の村は海にさし出た島先にありますが、向かいの沖に見える中の島から妖しいものが渡って来ては村人を悩ましています。私の夫が早死にしたのもこの物怪の仕業でしょう」と語った。
すると僧は「これまでのご恩返しにこの家を災いから救いたい」と申し出て、火を焚き、水を浴びた後、したためた呪いの札を囲炉裏で焼き上げた。
すると間断なく雷が鳴り響き、激しく降り出した大雨が中の島へ向かったように見えた。
やがて雲が晴れ星の光が見えるようになると、僧は「これでしばらくは家に妖しいものは来ない。だが残念なことに悪鬼を一体逃してしまった。これより二十年後、この家に災いが起こるだろう。その時はこの札を火にくべて焼けば妖怪の根源を絶ち、子孫も繁昌するはずだ」と言って、赤い文字が書かれた鉄の札を母に渡した。
そして僧は旅立ち、二度と帰ることはなかった。

時が経ち、源は二十三、四歳になった。
源は容姿端麗で心優しい性格に育ったため、村人たちから恋い慕われていたが、母は普通の人にはもったいないと思い、嫁がせず大切にしていた。
ある日、大内某という五十歳ばかりの醜い容姿の貴族が物見遊山の帰りに丹後を訪れ、伊称の村に滞在した。
そこで大内某は源に一目惚れし、毎夜宿に母を呼び出しては娘のことを聞き出して都へ連れ帰ろうとしたが、色よい返事を聞けずにいた。
そんな中、大内某はかつて巡礼僧から貰ったという鉄札の話を聞き、母に札を見せてほしいと頼んだ。
母は札を大事にしていたので別に作った偽の札を渡したところ、大内某は急に「源を私にくれ」としつこく言い寄ってきた。
それでも母が断ると大内某は怒り狂い、「家中を捜して娘を見つけ出せ。都へ連れ帰るぞ」と家来に命令し、源を連れ去ろうとした。
母は大内某の非道を嘆くばかりだったが、ふと思い立ち、僧から貰った鉄札を火にくべて焼いた。
すると雷鳴と共に大雨が降り出し、雷が家の向かいの磯に落ちたように見えた。
やがて雨は上がり、夜が明けてから見ると、大内某ら都人は皆、衣服を着た古猿に変わっていた。
この古猿たちの持っていた道具はいずれもこの世の物ではない金銀の類だったので、宮津の成相寺の宝倉に収められたという。

『御伽百物語』「宮津の妖」より


都人に化けた古猿たちは、二十年前に僧が取り逃がした悪鬼だったのでしょうか。


伝承地:宮津のどこか(伊根町?)

孕み猿の祟り

孕み猿の祟り (はらみざるのたたり)


世木村殿田の上野山の中腹に、丹波猿楽で有名な梅若実延の屋敷があった。
ある大雪の日、実延が庭を眺めていると、松の陰に大きな猿がうずくまっていた。
早速弓で矢を射かけようとすると、大猿は実延に向けてしきりに自分の腹を指さし、慈悲を乞うような素振りを見せた。
だが実延はそれを無視して矢を放ち、大猿を射殺した。
そして死体を縁側に運び、よく見てみると、大猿は妊娠していることがわかった。
以来、梅若家には不幸が続くようになり、遂に没落して江戸に移り住んだという。

『丹波の伝承』「孕み猿の祟り」より


伝承地:南丹市日吉町中世木


河阿神社の大狒々

河阿神社の大狒々 (かわくまじんじゃのおおひひ)


昔、稗田野村では年に一度、屋根に矢が刺さった家の娘を人身御供として、河阿神社の神に差し出すという風習があった。
だが実際は神ではなく、神社の森に棲む大狒々が娘を喰っていたのであった。
ある年のこと、今年も娘を人身御供に捧げることになったが、その時村を通りかかった武士が大狒々退治を買って出た。
武士は娘の代わりに長持ちの中に入り、大量に用意させた酒と一緒に神社へ供えてもらった。
そのまま待っていると、真夜中頃に森から大狒々がやって来て、長持の中の娘を喰おうとした。
ところが大量の酒を見つけた大狒々は先にそれを飲み始め、やがて酔い潰れてしまった。
武士はその隙を狙って大狒々を退治し、村人たちを救ったという。
大狒々から村人たちを救った武士は、剣豪・岩見重太郎だと伝えられている。
また一説には、大狒々は通行人を無差別に襲って食べていたので、人々はここを通ることを恐れていたとも言われている。

『丹波の伝承』「河河神社の狒々」
『京都 丹波・丹後の伝説』「岩見重太郎ヒヒ退治」
『河河神社 現地案内板』より


岩見重太郎の妖怪退治シリーズ。
講談などで知られる「岩見重太郎の狒々退治」のような伝承ですね。
舞鶴市の御霊神社にも、岩見重太郎が狒々猿を退治したという伝承があるそうです。(『舞鶴の民話 第二集』)
また、同神社には大狒々が大蛇に変わったバージョンの伝承もあります。
河阿神社の大蛇

河阿神社
亀岡市稗田野町の河阿神社。

台石
人身御供の娘を入れた長持を置いたという「生娘長持の台石」。置きにくそう。

御霊神社
舞鶴市志楽の御霊神社。


伝承地:亀岡市稗田野町・河阿神社


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