丹波・丹後の妖怪あつめ

京都府北部(丹波・丹後地域)の怪異妖怪伝承を紹介するブログです。

祟り

日蓮上人の像

日蓮上人の像 (にちれんしょうにんのぞう)


昔、丹波国黒田村に日蓮上人の像があった。
ある時、村に熱病が流行し多くの死者が出たため、人々は像の祟りだと考え、櫃に入れて山中に捨てた。
それから長い年月が経ち、像のことを知る者もいなくなったが、ある時、山中から経文を読む声が聞こえてきた。
村人は不思議に思い、山へ入って声の出所を辿ったところ、日蓮上人の像を発見した。
早速生福寺(聖福寺?)という寺に安置したが、その後、宇津宮心覚という者が像を奪い取り、京の市中で売り飛ばした。
それを見た本満寺(京都市上京区)の日重上人は急いで像を買い取り、同寺に安置したという。
また一説には、元三大師(良源)の像とも言われている。

『都名所図会』巻一「廣布山本満寺」より


黒田村は現・丹波市氷上町黒田、丹波篠山市黒田、京都市右京区京北の三ヶ所にあったことが確認出来ますが、本文の舞台がどの黒田村を指しているのかは不明です。
『都名所図会』の約三十年前に刊行された『新著聞集』に本満寺の日蓮上人像に関する話があり、「上人像は北山芹生の里の土中から見つかった」と書かれています。
そして像が発見された北山芹生の里は現・右京区京北芹生町のことで、この辺りは黒田村に含まれていました。
このことから、本文の黒田村=京都市右京区京北地域の黒田村説が有力っぽいです。


伝承地:丹波のどこか(京都市右京区京北芹生町?)

やぐろ大明神

やぐろ大明神 (やぐろだいみょうじん)


戦国時代のある雨の日、僧に扮した十一人の落人が久下村を訪れた。
僧たちは家々を巡り一夜の宿を求めたが、落人だと感づかれことごとく拒否された。
そんな中、善兵衛という情け深い百姓が僧たちを家へ招き入れ、粟汁を振舞ってもてなした。
僧たちは善兵衛の家で一夜を過ごしたが、翌日になっても雨は止まず、その日も滞在することになった。
ところがその夜、僧の一人が急に苦しみ出し、介抱する間もなく死亡した。
それを皮切りに、次の夜も一人、また一人と倒れていき、遂に十一人全員が死んでしまった。
善兵衛は他の村人から「あんな貧乏僧の世話をするからだ」と罵られながらも、僧たちを手厚く葬った。
するとその日から村にひどい悪疫が流行り、村人は次々に死んでいった。
誰言うとなく「あの僧たちの祟りだ。丁寧に葬れば流行病もなくなるだろう」と、法要を営んで墓を整えたところ、それからは流行病で倒れる者はいなくなった。
その後、村に“やぐろ大明神”という小さな祠が建てられ、流行病の神として信仰を集めたという。

『山南町誌』「やぐろ大明神」より


伝承地:丹波市山南町谷川(やぐろ大明神の位置は不明)



旭塚の畑跡

旭塚の畑跡 (きょくづかのはたけあと)


浄法寺村の観音堂の北、小高い田圃の中に旭塚という塚がある。
この塚の上に畑跡があるが、ここを耕せば祟りがあると言われている。
そのため、人々は恐れて触らず、畑は荒れ地になっていた。
天保の頃、聖隣寺の和尚がこの畑を耕作したが、その時に四尺(1.2m)余りの太刀が出土したという。
また明治の末頃にも木棺や直刀、菅玉が出土したが、誰の塚なのかはわかっていない。

『新編 桑下漫録』「旭塚」より


祟りを恐れぬ和尚、強い。


伝承地:亀岡市篠町浄法寺(旭塚は現存していない?)


ケキリ岩

ケキリ岩 (けきりいわ)


昔、ある老婆がケキリ(草刈り用の農具?)を持って赤岩山の麓を歩いていた。
すると山から四坪(約13㎡)余りもある大きな岩が転げ落ちて来て、老婆を押し潰した。
その岩は田圃の中に落ち、“ケキリ岩”と名づけられた。
ところが、ケキリ岩のある田圃に落ちて怪我をする人が続出したので、割って捨ててしまったという。
人々は赤岩山から岩が落ちるのは神の祟りではないかと考え、山の中腹に観音像を祀った。
するとそれ以来、山から岩が落ちてくることはなくなったという。

『天田郡志資料 上巻』「観音様の由来」より


この観音像は赤岩山中腹の長福寺という寺に祀られていました。
ですが寺は廃寺となり、今は観音堂のみが残されています。
観音堂は天田郡内三十三ヶ所観音霊場の一つとされ、観音像(十一面観世音菩薩)は堂内に安置されているそうです。


伝承地:福知山市下小田


月の輪

月の輪 (つきのわ)


二箇村と苗代村の境に“月の輪”という三日月形の小さな田がある。
この田は地頭(領主)も祟りがあると言って除地にされているが、米を作らなければ両村に祟りがあるという。
そのため、二箇村の義右衛門という男が身を清め、炊事の火を別火にして米を作った。
この田で出来た米は伊勢神宮の御師・幸福出雲太夫へ初穂として献上し、稲藁は全て田の中へ入れ、翌年の肥料にしたという。
また、不浄の肥料を入れたり、女が田に入ると祟るとも言われている。

『丹後国中郡誌稿』「名勝」より


月の輪田
二箇の月の輪田。三日月田とも。
豊受大神が清水戸に浸した種籾を蒔いて稲作をし、とれた稲種を天照大神に献上したという伝説があり、稲作発祥の地だと伝えられています。(『現地案内板』)
日本各地にある月の輪田の伝承地の中で、三日月型の田圃が現存しているのはここだけなんだとか。
元々は少し離れた場所にありましたが、昭和四十二年(1967)の耕地整理の際に現在の場所に移されたそうです。
その後は長らく耕作放棄地になっていましたが、月の輪田復興のため、平成二十五年(2013)から古代米の栽培が行れるようになりました。(ウェブサイト『ようこそ月の輪田と清水戸』)

ちなみに、かつて舞鶴市田中にも「月代田」という三日月型の田圃があったらしく、そこは美しい少年のような天女が拓いた田圃だと伝えられています。(『舞鶴の民話 第四集』)


伝承地:京丹後市峰山町二箇


賀良利平の祟り

賀良利平の祟り (からりへいのたたり)


安永の頃、布袋野村に賀良利平という男がいた。
利平は素行が悪く、いつも諍いを求めて村の安寧を破り、風紀を乱して人々を困らせていた。
ある日、利平は庄屋の宴会に招かれたが、些細なことから中道重郎右衛門という男と口論になり、凶器を持ち出して脅迫する騒ぎを起こした。
遂にたまりかねた庄屋は利平殺害を決心し、代官の許しを得た後、竹槍で武装した村人たちを利平の家へ送り込んだ。
これには利平も困り果て、畑村の金剛寺に逃げ込んで院主に助命を嘆願した。
そこで院主に不心得を諭され出家することを勧められたが、利平は仏門に入ることを好まず、寺を辞して川沿いに自宅へ帰ろうとした。
だがその途中で村人に見つかり、遂に殺されてしまった。

ところが利平の死後、村に数々の祟りが起こった。
庄屋が年貢米を江戸に届けた時、日本橋の群衆の中に死んだはずの利平の姿を見つけた。
庄屋は利平の怨みの籠った顔に怯え、村に帰ってから病床に伏し、熱病に苦しみながら死亡した。
また重郎右衛門や利平殺害に加わった人々も次々と不運に見舞われ、更には疫痢の流行や火災が立て続けに起こったため、村人たちは利平の祟りだと言って恐怖に陥った。
そこで村人たちは利平の魂を慰めるため、氏神(河上三神社?)の境内に正掲羅大明神として祀り、殺害した場所に碑を建て懇ろに弔ったという。

『熊野郡伝説史』「賀良利平遺跡(川上村)」より


江戸時代、布袋野村は幕府直轄の天領だったので、毎年年貢を江戸まで運んでいたそうです。大仕事ですね。
ちなみに『京丹後市の民俗』には、「利兵衛という素行の悪い男が宴会時に暴れ出したので竹槍で殺害し、その後供養のために石塔を建てた」とあり、本文の利平のように死んでから村に祟りを起こしたというくだりは書かれていません。名前も微妙に違っています。

賀良利平の碑
賀良利平の碑。
久美浜町布袋野から同町市野々へ向かう道端にあります。
『熊野郡伝説史』によると、この碑が建てられたのは安永八年(1779)の四月と伝えられています。
苔むしていてはっきりとは読めませんが、右側に「安永~」と年号らしき文字列があり、真ん中には「南無阿弥陀仏」と名号が刻まれています。


伝承地:京丹後市久美浜町布袋野


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