丹波・丹後の妖怪あつめ

京都府北部(丹波・丹後地域)の怪異妖怪伝承を紹介するブログです。

山の神の祭

山の神の祭 (やまのかみのまつり)


雲原村仏谷では、旧正月九日に山の神の祭が行われる。
祭の日は十五歳以下の男子が集まり「山の神のかんじじゃ」と唱えながら米、葉、金銭などを集め歩き、泊る宿を女気がないように清める。
夜更けになると宿から出て、立って歩く者と四つん這いになる者に分かれ、交互に列をなし「牛糞ですべって、馬糞で鼻でぐな」と唱えながら山の神の社まで行く。
そして山の神に供物を捧げた後は、振り返らずに走って帰るという。
立って歩く者と四つん這いになる者は早稲と晩稲に喩えたもので、道でこの列に出会えば死ぬと言われ、祭の夜はどの家も戸を固く閉ざし外に出ないという。

『民俗学』2巻3号「但馬高橋村探訪録(二)」より


雲原地区の北東の大江町佛性寺地区でも、昭和五十一年(1976)頃まで山の神の祭を行っていたそうです。
こちらは春と秋の年二回行われ、子供たちが家々を回って米や豆、金銭などの供え物を貰い「山の神のかんじんじゃ、もう一つくしょうもんじゃ」と唱えながら山の神へ参るというもので、雲原のように二足歩行と四つん這いに分かれて歩いたり、列に会わないよう外出しないなどの特殊ルールはなかったようです。(『民俗志林 第8号』)

見たら死ぬ秘祭。


伝承地:福知山市雲原


鬼祭

鬼祭 (おにまつり)


旧暦十一月の丑の日、竹野神社では宮衆三十六名が鬼となって村を回る“鬼祭”が行われる。
夜になると鬼は禰宜の家を出発し、法螺貝を吹き、太鼓を叩きながら「アオー、アオー(「会いたい」の意?)」と連呼して一晩中村内を練り歩く。
そして一夜明けた早朝、鬼は再び禰宜の家に戻り、法螺貝と太鼓を打ち鳴らしながら竹野神社へ引き揚げて行く。
この鬼に出遭うと三年以内に必ず死ぬと言われているため、各家は夕方までに戸締りをし、一夜を静かに過ごす。
当日は村の分岐路に鬼祭を行う旨を記した立札を立て、余所者が巻き込まれないよう配慮したという。
祭の日は余所者を泊めることは禁じられていたが、ある年の鬼祭の夜、旅の六部が強引に村の家に泊まった。
すると翌朝、六部は八つ裂きにされて木の枝に引っかけられていた。
禁を破って家に泊まったため、鬼に殺されたのだと言われている。

『丹後の伝説 ふるさとのはなし』「竹野の鬼祭」
『丹後町の民話 -第二集-』「おに祭の話(宮)」より


鬼祭は麻呂子親王に退治された三上ヶ嶽の鬼(英胡・軽足・土熊)を鎮めるための祭とされており、竹野神社の宮司と宮衆だけで執り行われ、関係者以外は見てはいけない決まりになっているそうです。

また江戸時代の地誌『丹哥府志』にも鬼祭の項があったので簡単に紹介します。

祭の前夜、竹野村(宮村)の宮衆三十六名は、斎戒沐浴して清浄な家に籠る。祭の当日、宮衆は竹野神社の宮司と共に牧の谷で呪文を唱える。その日の深夜、宮司は従者を連れて竹野神社に参り、洗米して米を炊く。その米が炊ける頃、従者は宮司を残して神社から去る。その後の宮司の行動は秘匿されているが、一説には炊いた米に砂を混ぜ、後ろ手に神前に供えた後、すぐに神社から去るという。そして宮司が帰った頃、その米を食べる者がいるという。鬼祭の夜は奇怪なことが起こり、また祭を見れば三年以内に死ぬと言われているため、村人たちは日暮れから家の戸を閉ざし、誰も外に出ない。(『丹哥府志』)



鬼神塚
「鬼神塚」と呼ばれる丸石の群れ。
鬼神塚は
麻呂子親王に退治された鬼たちの墓と言われており、元々は十五、六基の塚が所々に散乱していましたが、損壊がひどかったので近世に新しいものを作り一ヶ所にまとめられました。
現在は竹野神社裏手の路傍(神明山古墳のそば)にひっそりと祀られています。
もう少し見つけやすい場所に置いてほしかった……。


斎宮神社
竹野神社の摂社、斎宮神社。(左が本殿)
日子坐王命(崇神天皇の弟)・建豊波豆良和気命(開化天皇の子)・竹野媛命(開化天皇の嫁)の三神の他、麻呂子親王を祀っていると言われています。
ちなみに竹野神社の「竹野」は「たかの」と読みます。


伝承地:京丹後市丹後町宮・竹野神社


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