丹波・丹後の妖怪あつめ

京都府北部(丹波・丹後地域)の怪異妖怪伝承を紹介するブログです。

相撲人と大蛇

相撲人と大蛇 (すまいびととだいじゃ)


昔、丹後国に海恒世(あまのつねよ)という右近衛府の相撲人がいた。
ある夏、恒世はお供の童子と散歩をしている内、家の近くを流れる古い川の淵まで来た。
すると対岸の辺りから水が膨れ上がり、恒世の方へ向かって来たかと思うと、大蛇が水中から首を突き出した。
大蛇はしばらく恒世を見つめていたが、やがて水中に頭を入れると、再び恒世の方へ近づいてきた。
そして水中から伸ばした尾を恒世の足に巻きつけ、物凄い力で川に引き込もうとした。
思わず引き倒されそうになったので、力を込めて強く踏ん張ると、硬い土の中に五、六寸程足がめり込んだ。
するとその途端、大蛇の尾がぷつりと切れ、水中に血が浮かんだ。
恒世の足には引きちぎられた大蛇の尾が巻きついており、解いて水で洗ってもその跡は消えなかった。
やがて従者たちが駆けつけて来て、その内の一人が「酒で跡を洗うといい」と言うので、酒を取りに行かせて足を洗った。
そして大蛇の尾を引き上げさせたところ、切り口の太さは一尺程もあるように見えた。
対岸には大木の株があり、大蛇はそこに頭を巻きつけ、尾を水中から恒世の方に渡し、足を引っ張っていたのであった。
ところが大蛇の力は恒世より劣っていたので、真ん中から切れてしまったのだという。
その後、「あの大蛇の力は何人力だったのか試してみよう」と言って、大きな縄を恒世の足に巻きつけて十人程で引いてみた。
だが恒世は「あの蛇程の力ではない」と言うので徐々に人数を増やしていったが、「まだ足りない」と言い、遂に六十人がかりで引いた時、ようやく「それくらいの力だった」と納得したという。
このことから、恒世の力は百人力程であったと考えられた。

『今昔物語集』巻第二十三「相撲人海恒世会蛇試力語」より


お相撲さん強い。


伝承地:丹後のどこか(場所は不明)

石龍

石龍 (せきりゅう)


石龍(石竜)は岩石の間に棲む蛇のような生き物で、福知山市・与謝野町・宮津市に伝えられています。

●福知山市
昔、三岳村一ノ宮竹石の山奥に大岩があり、そこに石龍という蛇体の龍神が棲んでいた。
石龍は霊験もあらたかで、明治四十一、二年(1908,1909)頃は京阪神方面からも参詣者が訪れ、その数は谷を埋め尽くす程だったという。
石龍に悪戯をすれば腹痛になる、足腰が立たなくなる、目が見えなくなるなどの罰が当たるが、大岩に参って謝罪すればすぐに治ったという。
今も一ノ宮では石龍講が行われており、初夏から秋にかけて大岩の割れ目から石龍の姿を見ることが出来るという。(『福知山の民話と昔ばなし集』)

●与謝野町
幾地の蔵割口に巨岩があり、そこに石竜という竜神が棲んでいた。
だが、いつの間にか巨岩は削り崩されてしまったという。(『野田川町誌』)

●宮津市
宮津の小田村に石龍というものがいる。
形は蛇に似て、長さは30cmに満たず、岩の隙間に棲んでいるという。
気温の高い日は時々姿を現し、老いることもなく姿も変わらない。
古老曰く、石龍は百年以上生きているという。
何を食べているのかわからず、水に沈むもの、火に入るもの、空を飛ぶもの、土に潜るもの、木の内に棲むもの、果ては人の腹の中に生じるものまでいるという。(『丹哥府志』)

今福の滝山の奥に二つに重なった大石があり、石の間に石竜様という大蛇が棲んでいる。
石竜様は時々通行人に目撃されていたが、その姿を見ることは不吉の前兆とされ、姿を見た者は急な大雨に降られたり、家族に不幸があったりしたという。
そのため、誰も大石に近づかなった。(『宮津の民話 第一集』)

松尾から木子へ向かう道(現在の丹後縦貫林道)の途中に大きな岩がある。
その岩に小さな穴が開いており、そこに龍神の祠が祀られている。
龍神は雨の神とされ、ある青年が雨乞いを行った時、岩の穴から白い小さな蛇の腹が見えたという。
ある時、木子の大松金左右門という医者が「松尾の人々は蛇を神様だと言っているが馬鹿なことだ」と言って、木の枝で岩の穴を弄んだ。
すると帰宅途中に激しい腹痛を起こし、苦しむことになった。
後日、金左右門は岩に向かって謝罪し、それからは絶対に岩の穴を弄ばなかったという。(『私たちの小さな宮津・松尾史』)

『福知山の民話と昔ばなし集』「竹石の石龍さん」
『野田川町誌』「幾地の石竜」
『丹哥府志』「與謝郡 第一 宮津の庄」
『宮津の民話 -ふるさとのむかしばなし- 第一集』「今福の昔話」
『私たちの小さな宮津・松尾史』「石龍さん」より


京丹後市の石龍


伝承地:福知山市一ノ宮/与謝野町幾地/宮津市小田、今福、松尾


依遅ヶ尾の大蛇

依遅ヶ尾の大蛇 (いちがおのだいじゃ)


昔、依遅ヶ尾の山に大蛇が棲んでいた。
ある時、大蛇は斎神社の神姫に一目惚れしたが、神社の神威に打たれ、どうしても境内に入れずにいた。
祭神の天照大神は大蛇を哀れみ、「二百十日後の午後二時に斎神社の御旅所へ行けば恋を叶えてやる」と告げた。
更に神姫にも、「二百十日後の午後二時頃、とても良いことがあるので斉神社の御旅所へ行くように」という夢を見せた。
そして二百十日後の約束の日、神姫は夢のお告げに従い、御旅所に籠って祝詞を上げていた。
ところが午後一時になった頃、すさまじい大雨が降り注ぎ、瞬く間に付近の田畑は水の中に沈んでしまった。
御旅所は高い位置にあったので水没を免れたが、神姫は帰ることが出来ず祝詞を唱え続けた。
そして午後二時になり、依遅ヶ尾から大蛇が黒雲に乗って神姫に会いに来た。
ところがまたしても斎神社の神威に打たれてしまい、神姫に近づくことが出来ず立岩の沖に落下した。
この時、海のそばに住む人々は、嵐の中から神姫を吸いつけるように睨む大蛇の眼光を目撃したという。
こうして大蛇の恋は遂げられないまま、それから何千年もの間、二百十日(*)の午後二時になると、大蛇は依遅ヶ尾から黒雲に乗って立岩の沖へ現れ続けた。
だが大蛇も年を取り、間違えて二、三日早く現れたり、逆に四、五日遅れて来たりするようになった。
近年にも、二百十日に立岩の沖から陸を睨む大蛇の眼光を見た人があったという。

『丹後の民話 第三集 -ふるさとのむかしばなし-』「依遅ヶ尾の大蛇と斎神社の神姫の恋」より


(*)二百十日…立春の日から数えて二百十日目の日(九月一日頃)で、この日は台風が来る厄日とされ風害を防ぐための風習(風祭)が行われていた。

神様が神社の神威バリアーを解いてくれなかったのか、それとも神姫が祝詞を唱えていたせいで入れなかったのか……何にせよ大蛇が不憫。
ちなみに斎神社(斎宮神社)は依遅ヶ尾山の西麓にある竹野神社の摂社のことで、青葉山の土蜘蛛・陸耳御笠を征伐した日子坐王命や開化天皇の妻・竹野媛命を祀っています。
丹後の古地誌『丹後旧事記』には、「昔、依遅神社に棲む霊蛇が竹野神社の神女を取っていたので金丸(麻呂子親王?)という者が退治した。また風土記(『丹後国風土記』?)曰く、竹野神社の斎女が初潮を迎えると依遅ヶ尾の山に黒雲がかかり、三頭五尾の大蛇が現れ斎女を睨みつける。それを限りとして斎女は郷里に帰らなければならなかった」という話があります。
また竹野神社には、「天下に凶徒がはびこる時は社殿が鳴動し、宮中の神箭がことごとく飛び出して海の中に入る」という言い伝えがあるそうです。(『神社啓蒙』)

竹野神社の秘祭


伝承地:京丹後市丹後町宮・竹野神社


蛇切岩

蛇切岩 (じゃきりいわ)


昔、多門院の黒部におまつとおしもという美しい姉妹がいた。
二人はいつも仲良く与保呂の奥山へ草刈りに行っていたが、ある日、姉のおまつは山の池の畔で美しい青年と出会い恋に落ちた。
それからおまつは妹のおしもを置いて一人で奥山へ行くようになり、青年と逢瀬を重ねた末に契りを結んでしまった。
その頃、おまつに縁談が持ち上がっていたが、彼女は結婚を強いる両親を恨めしく思い返事を濁していた。
ある日、どうしてもおしもと奥山へ行かなければならなくなり、二人で池に向かったところ、青年は妹の姿を見るや驚いて姿を消した。
するとおまつは「私は今日限り家に帰らない」と言い出し、おしもの制止を振り切って池に飛び込んだ。
そしてにわかに雨が降り出したかと思うと、池一杯になった大蛇が忽然と姿を現し、おしもを見守ってから水底へ沈んだ。
姉妹の父親はおしもから一部始終を聞き、急いで池へ駆け付けると、泣きながらおまつの名前を呼んだ。
すると水中から大蛇が現れ、父親を恨めしそうに見ながら再び水底へ姿を消した。

その後、池の主となった大蛇は付近の村を脅かすようになった。
与保呂村の人々は大蛇を退治する他ないと考え、モグサで大きな牛形を作り、中に火を点けて池へ投げ込んだ。
好餌とばかりに牛形を呑み込んだ大蛇は、腹の中で燃え広がる火にもがき苦しみ、のたうち回った末に死亡した。
すると同時に激しい雨が降り出し、やがて池の水が溢れ洪水となった。
この洪水で大蛇の死体は押し流され、下手にあった岩に当たって三つに切断された。
その後、村人たちはおまつの祟りを恐れ、三断された大蛇の頭部を日尾池姫神社に、胴体をどう田の宮に、尾を大森神社に祀った。
以来、与保呂村の神社の境内と日尾池姫神社の宮山の一部だけ、松の木が生えなくなったという。
大蛇を三断した岩は“蛇切岩”と呼ばれており、割れ目には天候によって色を変える白い姫蛇が棲んでいるという。

『舞鶴市史 各説編』「蛇切岩(与保呂)」より


おまつと恋仲になった美しい青年は大蛇の化身だったとも言われています。(『森と神々の民俗』)
おまつが大蛇になった後、この青年大蛇はどこへ行ってしまったんでしょう。

蛇切岩
大蛇を三断した蛇切岩は与保呂地区の東の山中にあります。
岩は広場から一段下がった川の畔に鎮座しており、注連縄が張られていました。かなり大きい。
この岩に棲むという姫蛇は見当たりませんでした。

蛇切神社
蛇切岩の上の広場には小さな社が建てられていました。
近くの案内板によると「蛇切岩神社」という名前の神社だそうです。
由緒書きがなかったので詳細はわかりませんが、名前から考えるに蛇切岩を御神体として祀っているんでしょうか。

蛇頭松姫大神
与保呂の日尾池姫神社の
本殿脇には「蛇頭大松大明神」という、大蛇の頭を祀る小さな祠があります。
おまつの祟りなのか、境内には松が一本も生えないそうです。

どうたの宮
堂田神社(どうたの宮)。
与保呂の西、八反田南町の民家と民家の狭間にある小さな神社で、大蛇の胴体を祀っています。
何故か鳥居も社も道路に背を向けた形で建てられています。

大森神社
彌伽宜神社(大森神社)。
東舞鶴の中心部にある神社で、大蛇の尾を祀っています。
また神社の奥に杜清水という綺麗な水が湧き出す泉があり、国の一大事の際にはこの一隅から白い水が出ると言い伝えられています。

舞鶴の三断された大蛇たち。


伝承地:舞鶴市与保呂


大蛇の復讐

大蛇の復讐 (だいじゃのふくしゅう)


昔、ある村の外れに猟師が住んでいた。
猟師は何度結婚しても嫁が早死にし、これまでに六人の嫁に先立たれていた。
ある日、美しい娘が猟師の家を訪れ、一夜の宿を求めた。
娘はそのまま家に住むようになり、猟師は甲斐甲斐しく働く彼女に嫁になってほしいと思っていた。
それからしばらく経ったある夜、猟師は井戸の水を掻き出すような音で目を覚ました。
井戸では娘が水浴びをしており、水をかぶる度、徐々に恐ろしい大蛇へと姿を変えていった。
猟師は何も見なかったことにして眠ったが、次の夜も娘は同じように水を浴びては徐々に大蛇の姿になっていった。
猟師はその姿を最後まで見られずにいたが、三日目の夜、「今夜は最後まで見てやろう」と考え、寝たふりをして娘の様子を窺っていた。
やがて娘は静かに起き上がると、井戸で水浴びを始め、水を五杯かぶったところで遂に恐ろしい大蛇に姿を変えた。
そして娘はグーッと手を伸ばし、家の中へ逃げ戻ろうとする猟師を捕まえると、「かつてお前は私の母を撃ち殺したので、その復讐に嫁を六人共殺してやった。次はお前を殺そうと思っていたが、正体を見破られてしまい残念だ」と言って、その場に倒れて死んだ。
その後、猟師はこの大蛇を神として祀ったという。

『みやづの昔話 -北部編-』「大蛇の復讐」より


大蛇の復讐に巻き込まれて殺された六人の嫁が不憫…。


伝承地:宮津市松尾


鬼住池の大蛇

鬼住池の大蛇 (きすみいけのだいじゃ)


岸谷の人々は、舞鶴と綾部の境にある幾津見峠を「鬼住峠」と呼んでいる。
昔、鬼住峠と弥仙山との間の尾根付近に「鬼住池」という池があり、そこに棲む大蛇が人々を呑み込み危害を加えていた。
そこで岸谷村の五衛門という男が毎日弓矢の練習をして腕を磨き、遂に大蛇を退治した。
そして大蛇は三つに切られ、布敷の池姫神社、今田の倭文神社、城屋の雨引神社にそれぞれ祀られた。
だが大蛇の祟りにより、五衛門の家は七代にわたり不幸が続いたという。

『まいづる田辺道しるべ』「幾津見峠(鬼住峠、木住峠)」より


この他にも「岸谷の五右ヱ門という男が菖蒲の葉を矢羽根にした弓矢で鬼住池の大蛇の片目を射貫いて退治した。だがその後大蛇の祟りを受け、五衛門の家には七代続けて片目の子供が生まれたので、大蛇の頭を池姫神社に祀った」という、本文の鬼住池の大蛇とよく似た話があります。(『森の神々と民俗』)

三断した大蛇を池姫神社や雨引神社に祀るという展開は、以前に紹介した“五老の滝の大蛇”や“日浦が谷の大蛇”の伝説とよく似ていますね。
舞鶴地方は退治した大蛇を三分割して祀る伝説が多い気がする。

ちなみに鬼住峠の由来については、ある商人が幾津見峠で何者かに殺され死体がうち捨てられていたから、幾津見峠に山賊が出没し通行人を苦しめていたから、などの伝説から幾津見峠を「鬼が住む峠」=「鬼住峠」と呼ぶようになったそうです。(綾部側では「木住峠」と呼んでいるが由来は不明)
峠一帯の山番地も「鬼住」という地名なんだとか。


伝承地:舞鶴市岸谷(鬼住池は現存していない)


  • ライブドアブログ