丹波・丹後の妖怪あつめ

京都府北部(丹波・丹後地域)の怪異妖怪伝承を紹介するブログです。

亀と馬の領地争い

亀と馬の領地争い (かめとうまのりょうちあらそい)


曽我部村字寺村にある與能(よの)神社の使いは亀で、同村字穴太にある小幡神社の使いは馬とされている。
昔、両社の亀と馬が曽我部村を競争して回り、先に通った場所を領地として貰う約束をした。
ところが油断した馬は小幡神社の前で居眠りをし、その隙に亀は與能神社から九つの字を通って穴太まで進んだ。
目を覚ました馬は慌てて穴太まで駆け抜けたが、亀に追いついたのは穴太寺の前だった。
そのため、與能神社は寺村、宮條、春日部、中村、法貴、犬飼、南條、四條、重利の九字の氏神となり、小幡神社は穴太だけの氏神になったという。

『丹波の伝承』「與能小幡両社の領地争ひ」より


與能神社
曽我部町寺の與能神社。
本文にもあるように、この神社の使いは亀で、近くの川や田圃で捕まえた亀は境内の放生池に放つ風習があるそうです。
ちなみに、かつて與能神社には別当寺の與能神宮寺という大伽藍があったそうです。
神宮寺の近くの谷筋には「大杉さん」と呼ばれる周囲10mもの杉の株が残っており、里人の天狗が棲んでいたという伝説があります。(『亀岡神社誌』)

亀っぽい石
境内の放生池に亀は見当たりませんでしたが、亀っぽい形の石はありました。

小幡神社
曽我部町穴太の小幡神社。
與能神社から北に3km程の所、西国観音霊場二十一番札所・穴太寺の近くにあります。

絵馬(神馬図)
本殿の脇に絵馬と鬼瓦が納められた祠があります。
この絵馬(神馬図)は穴太出身の絵師・円山応挙が描いたものだそうです。

円山応挙奉納絵馬
神馬の絵は応挙が描き、息子の円山応瑞が装飾して享和三年(1803)に奉納したと伝えられています。(『亀岡神社誌』)

朝寝坊して領地を逃したドジ女神。


伝承地:亀岡市曽我部町寺・與能神社、同町穴太・小幡神社


人を馬にする家

人を馬にする家 (ひとをうまにするいえ)


昔、丹波国の奥地の山麓に大きな家があった。
家には数十人もの人が住んでいたが、仕事らしい仕事をしていないにも拘わらず、裕福な生活を送っていた。
また、馬を飼っている様子もないのに、月に二、三頭の良馬を売っていたので、人々は不審に思っていた。
その家は街道沿いに建っており、旅人が宿泊することもあったので、人々は「家の亭主が秘術を使い、宿泊客を馬にして売っているのだ」と噂していた。

ある時、五人の俗人と一人の修行僧がこの家に泊まった。
亭主は六人を招き入れると、「お疲れでしょうから、まずはお休み下さい」と言って人数分の枕を用意した。
五人の俗人は眠ったが、僧は丹後国でこの家の噂を耳にしていたので、用心して起きていた。
ふと部屋の仕切りの隙間から台所を覗くと、家人が忙しそうに動き回っているのが見えた。
小刀で仕切りの隙間を広げてよく見ると、畳台ようなものに土が盛られており、家人がその上に何かの種をまいて菰を被せた。
そして茶を四、五服飲む程の時が経った頃、家人が「もう良いだろう」と言って菰を取ると、盛り土から青々とした草が二、三寸(約6~9cm)程生えていた。その葉は蕎麦に似ていた。
家人はその草を取って茹で、蕎麦のように和えて大きな碗に盛りつけると、それを六人の食事として出した。
俗人たちは「珍しい蕎麦だ」と褒めて味わったが、僧は食べるふりをして簀の子の下に捨てた。
食事を終え、六人は家人に勧められるまま風呂へ向かったが、僧は途中で脇に逸れ、便所に隠れて様子を窺った。
すると亭主が錐、金槌、釘を持って現れ、五人がいる風呂場の戸を打ちつけてしまった。
僧は便所にいれば見つかるかもしれないと思い、暗闇に紛れて簀の子の下に隠れ、そこで息を潜めた。
しばらくして「もう良いぞ。戸を開けろ」という亭主の声を合図に、打ちつけられていた戸が開けられた。
すると中から馬が一頭、また一頭、いななきながら駆け出て、庭を踊り回った。
そうして五頭の馬が出て来たが、いつまで待っても六頭目が現れないので、亭主たちは灯りで風呂場を照らした。
ところが中には何もおらず、亭主たちは「もう一人はどこへ行った」と言って僧を捜し始めた。
僧はその騒ぎに乗じて簀の子から抜け出すと、家の裏山を登って遠くへ逃げ延びた。

翌日、僧は国の守護所に行き、昨夜の出来事を詳しく訴えた。
話を聞いた守護は「あの噂は本当だったのか」と言うと、兵を率いてその家へ行き、家人を皆殺しにしたという。

『奇異雑談集』巻三の三「丹波の奥の郡に、人を馬になして売りし事」より


人が馬や牛に変えられる話は古くから見られ、たとえば平安時代の説話集『今昔物語集』には、三人の修行僧が四国の深山で迷い、近くの人家に泊めてもらったが、その家の顔が怖い主人と怪しげな法師によって二人の僧が馬に変えられてしまう……という内容のものがあります。(残り一人は顔怖主人の妻とその妹に助けられ人のまま生還する)
また丹後地域にも、京丹後市大宮町に同じタイプの話が伝えられています。
あらすじは、伊勢参り途中の若者三人が宿に泊まったが、その家の老婆が作った食事(老婆が使役する紙製の小人がこしらえた怪しげな蕎麦)を食べたことで二人が牛に変えられてしまい、食べなかった一人は「この宿で起こったことは誰にも言わない」と約束することで解放された……というものです。(『丹後の民話 第二集』)


伝承地:丹波のどこか(場所不明)

愛宕山の火の神

愛宕山の火の神 (あたごやまのひのかみ)


龍蔵寺の奥の愛宕山には火の神が住んでおり、火事の時はこの神に消火を願えば叶えてくれるという。
ただし願をかけた後は、三年の内に愛宕の神にお礼参りをする決まりになっている。

ある時、権兵衛という男の家で火事が起こり、愛宕山の火の神に願って火を消してもらった。
それから三年後のある日、また権兵衛の家が火事になった。
その時、権兵衛は前回の火事の願すまし(お礼参り)をしていないことを思い出し、「次は忘れずに願すましするので火を消して下さい」と願うと火は消えた。
だが権兵衛はその後も願すましをせず、更に四年が過ぎた。
ある夜、権兵衛はふと願すましのことを思い出し、早速愛宕山へ登った。
その途中で一旦休憩し、煙草を吸おうとしたが火打石が見当たらない。
するとそこへ火縄を持った坊主が現れたので、権兵衛は火を貸してほしいと頼んだ。
だが坊主は「この火は貸せない。これからこの火でお前の家を焼くんだからな」と言い、「いくら苦しい時の神頼みとはいえ、あの態度ではな」と続けた。
権兵衛が必死に謝ると、坊主は「それなら早く参って来い。ならば焼くのは家の棟だけで許してやる」と言い残し、山を下りて行った。
権兵衛は急いで山を駆け登って願すましをしたが、その時、村の方から一瞬だけ火の手が上がった。
慌てて家に戻ると、権兵衛の家の棟だけが焼けていた。
あの坊主は愛宕の神だったのだと気づき、それから権兵衛は必ず約束を守るようになったという。(『たんなんの民話と伝説』)

ある年の冬、城南村の太助という百姓が刈り取った茅に火を点けた。
すると火は強風に煽られ、みるみるうちに山へ燃え広がった。
その時、どこからともなく一頭の馬が現れ「今から愛宕さんに行って火が消えるよう頼んでやる。願いが叶ったら百日の間に愛宕さんへ恩送り(お礼参り)をしろ」と言って山へ駆けて行った。
しばらくすると火が消えたので、太助は愛宕の神に感謝し、田植えが落ち着いたら必ず恩送りに行くと誓った。
だが太助は田植えを終えても一向に恩送りをせず、いつの間にか百日が過ぎた。
ある日、太助が田圃の畔で休んでいると、どこからか「もう落ち着いたか」という声が聞こえた。
辺りを見回したが誰もいなかったので、太助は空耳だと思い家に帰った。
そして竈の火を点けようとしたが、何故かどうやっても点かない。
太助が腹を立てていると、一匹の鼠が現れ「馬との約束はどうした。恩送りはどうした」と何度も繰り返した。
太助はそこでようやく恩送りのことを思い出し、急いで愛宕山に参ったという。(『丹波のむかしばなし 第七集』)

『たんなんの民話と伝説』「愛宕(あたご)さんの火縄」
『丹波のむかしばなし 第七集』「太助の恩送り」より


年に一度家を燃やして喜ぶ愛宕の神。


伝承地:丹波篠山市真南条上


鞍ヶ淵

鞍ヶ淵 (くらがぶち)


昔、用明天皇は篠山川を渡ろうとしたが、水嵩が増していて渡河出来なかった。
そこで天皇は乗っていた馬の鞍を淵に投げ入れ、「この川を渡せよ」と水神に祈った。
するとどこからか大蛇が現れ、天皇に頭を下げて礼をした。
そして大蛇は欄干のついた橋に姿を変え、天皇を対岸へ渡したという。
それ以来、この淵は“鞍ヶ淵”と呼ばれるようになった。
また、用明天皇(足利尊氏とも)が馬になった岩に鞍を載せ、篠山川を渡ったという話も伝えられている。

『丹波志 氷上郡之部』「鞍ヶ淵」
『山南町誌』「天満若宮と鞍が淵」より


麻呂子親王が丹後国へ鬼退治に向かった時、篠山川が増水して渡れなかったので愛宕の神に願ったところ、天竜が現れて橋になったという話もあります。
この時、天竜の姿が見えたのは親王だけで、従者たちはただの橋にしか見えなかったそうです。(『丹波志 氷上郡之部』)


鞍が淵
写真は阿草橋から見た篠山川。
鞍ヶ淵は阿草橋の近くにあるらしいのですが、正確な位置はわかりませんでした。
かなり深い川なので増水してなくても渡るのは大変そう。


伝承地:丹波市山南町阿草


豆を喰いに出た絵馬

豆を喰いに出た絵馬 (まめをくいにでたえま)


昔、黒岡の畑の豆が、夜な夜な何かに食い荒らされることがあった。
よく見ると馬の足跡のようなものがついていたので、これは春日神社の絵馬が絵から抜け出し、豆を喰いに来たのだろうと考えられた。
そこで早速絵馬の周りに金網を張ると、それから畑の豆が食い荒らされることはなくなったという。
現在、この絵馬は金網を取り除かれ、春日神社絵馬殿の中央に掲げられている。

『篠山町百年史』「豆を喰いに出た絵馬」より


絵から馬が抜け出る話は舞鶴市にも伝えられています。


春日神社絵馬堂
春日神社境内の絵馬殿。

抜け出た絵馬
こちらが絵から抜け出た絵馬。黒駒ですね。
慶安二年(1649)に篠山藩主松平忠国が明石へ転封の際に奉納したもので、狩野尚信の作と言われてます。


伝承地:丹波篠山市黒岡・春日神社


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